雑記帳

もう駄目だと思った時の、最後の拠り所です。

それでも、生きてゆく

私は「きちんとした人間」にはなれそうもないのかもしれない

 

 

責任を伴う仕事が舞い込んだ時、それを背負いきる精神的な体力に欠けているのだと思う

どんな人間関係を持っていても、多かれ少なかれ何らかの責任が常に発生してくるものだ

一緒に遊んだり、イベントを企画したり、何らかの役割が与えられれば、そこには必ず責任が伴う

私は、そういう責任というものに過敏にアレルギーを感じてしまうようだ

 

 

思い返すと、定期的に人と距離を取り誰とも連絡を取りたくない時期がやってくる事がある

人間関係にかかわる小さな責任が塵のように積もり積もって、その結果重みに耐えられなくなり全てを投げ出してしまいたくなるのだ

そういう時期は二、三回は経験しているが、今まさに改めてそういう精神状態と化している

一つ一つは些細な事だ

遊びに誘ってくれる友人からのラインを未読無視したり、イベントの出演依頼を未読無視したりといった具合だ

「こんな事しなくても生きていける」という考えのもとでそういう状態に行きつくのだけれど、最近うすうす感じるのは、このままでは生きて行くことが出来なくなるのかもしれない、という危機感だ

人は一人では生きていけない

決まり文句のように聞こえる言葉だけれど、実際のところ、人は一人の力だけで生きているのでは決して無い

こうしてどこにもぶつけようのない自分自身の中の葛藤をぶちまける為にだけ使っているはてなブログも、通信のインフラも、パソコンも、身の回りのありとあらゆるものはどこかの誰かが自分自身の役割を全うした結果として私の手元に届いている

そう考えると、ある日唐突に連絡が取れなくなったり、役割を放棄するような自分という人間は、この社会にとって本質的に何の価値も無いように思えて仕方ない

かろうじて仕事を続けているおかげで収入はあるし、お金のおかげで人間らしい生活を担保されている

でもそれは、どこかの誰かが必死になって作り上げた資本主義のシステムのおかげであって、私は少しでも社会の基盤が揺らいだ瞬間、真っ先に切り捨てられて然るべき人間なのかもしれない

仕事もいうなれば人間関係の延長線上だ

今はプライベートにおいてのみ発生するこのリセット癖も、仕事で発生しないとは言い切れないだろう

むしろ発生するのは時間の問題だと言ってもいいかもしれない

私はいつか本当に、駄目になってしまうのかもしれない

 

他人から見た時の事を考えると、急に連絡が取れなくなる私という人間はかなり不快な印象なのだろう

腸が煮えくり返るような思いをしている人がほとんどかもしれない

特になんとも思わない人もいるかもしれないし、あっさりと見限っている人もいるかもしれない

人間として終わっている、なんて思う人もいるのかもしれない

少なくとも、肯定的な印象を持つ人は皆無だろう

 

失踪した人は毎日残してきた人間たちの事を思い浮かべるという話を聞いたことがあるが、それに近い精神状態なのかもしれない

これは、悦に浸っているのだろうか

それとも、自己嫌悪の念から自傷行為としてその人達の事を思い返しているのだろうか

少なくとも正常な精神状態ではないだろう

出来る事なら全部リセットしてなかったことにしたいと願うが、そんなことは出来そうもない

ただ連絡を返さなかっただけなのに、それにより生まれるネガティブな感情はあまりにも多いと感じる

理不尽だ、と思う

 

全ては結局、「自業自得」という言葉で片付くのだろう

人間関係は、連絡を返さないだけで簡単に崩れ去る

連絡を返さないという行為はとても簡単だ

ただ、時間が過ぎるのを待っていればいい

そんな簡単な事で、今、非常に苦しんでいる自分がいる

滑稽だと思う

結局、何が書きたかったのかもよく分からない

文字にして書き下すことで、この現状に何か希望を見出そうとしたのかもしれない

でも、今こうして文字に起こしていると生まれてくるのは、自己嫌悪と後悔の念ばかりだ

全く前向きな気持ちにならないまま、時間だけが過ぎていく

体調も悪い

救いようもない自分自身に嫌気が指している

常に何か悪いことをした気分で縮こまって生きて行くのはもううんざりだ

そう思うのであれば、身の振り方を決断するべきなのかもしれない

責任を果たさないという事は、誰かに迷惑をかけるということだ

迷惑をかけた人には、顔向けが出来ない気持ちとなる

何のためにそんな気持ちになるのかというと、これ以上、迷惑をかけた人を不快にさせない為だ

これ以上その人を不快にさせない為には、自分のみじめな姿を見せるか、相手にそれ以上の価値を与えるかが考えられる

縮こまって生きて行くというのは、前者の選択だ

これはとても簡単な事だ

ただ、縮こまって、みじめに見せていれば良い

反省しているんだ、と思わせれば相手もこれ以上何も言ってくることは無い

自分を守るために、みじめに見せるのだ

後者の選択は、前向きなものだ

と同時に、とても難しいことでもあるだろう

価値を与えるには、まず需要が必要だからだ

タイミングを見計らって、確実に価値を与える必要がある

ただ、本質的にもこの選択が一番相手にとっても自分にとっても良い選択であるように思える

私はこれからどういう行動を取るべきか、という点について

世の中、二元論で語ると破綻するものだ

だから、前者と後者の間を取る

傲慢にもならず、卑屈にもならず、悪い事をした事に対して反省の意を示し、相手に与えられる価値について考える

それが私の考える正解だ

今、私が堂々と生きて行こうと思う為に唯一考えられる方法だと思う

 

記事のタイトルは坂本裕二脚本のドラマのタイトルだ

身内から殺人犯が出てしまった家族と、被害者遺族の話

そのうち、前者の身内から殺人犯が出てしまった家族について印象が残っている

許されない罪を背負った、背負わされた人間がどう生きるのか

特に私自身は法を犯すような罪は何一つ背負っていないけれど、罪悪感とどう付き合っていくのか、という事を考えた時にふと思い出したので、このタイトルとした

今背負っている問題について、何も解決なんかしていないけれど、頭の靄が少しだけ晴れたような気がする

まだ腹の中に引っかかるようなものは沢山残っている

これはきっと、行動することでしか解消することは出来ないだろう

 

今日はもう寝よう

セロリカレー

この土日も誰にも会わなかった。

 

もともと休日を友人と過ごす、という事は少ない方だったが、就職してからはそれに拍車がかかり、ほぼ毎週の休日を一人で過ごしている。

経済的には比較的余裕があるので、一人で外食したり、一人で買い物をしたり、一人で音楽を聴いたり、一人だけで休日を充実させるのがどんどん上手になっていると感じる。

 

特に何か思いをぶちまけたい!という気持ちでも無いのだが、この二日間誰とも会わず、会話らしい会話をしていないという事で、周りから得る情報が内に溜まってゆくばかりでバランスが悪いような気がした為、何でもいいからこうして文章を書く事でぎりぎりインプットとアウトプットのバランスを保とうという意図で今キーボードを打っている。

いざこうして画面を目の前にすると、特に書きたい事は何も浮かんでこない。

まるで、街で一人で歩いている時、突然知り合いに声をかけられたときの、あの頭が真っ白になる感覚のようだ。

人と会話できる精神状態の時とそうでない時のギャップはかなりあるので、誰とも話していない休日に突然声を掛けられてしまうと間の悪いレスポンスしかできず申し訳ない気持ちになってしまう。

平日にそのテンションを引きずってしまう事もよくあって、毎週月曜の出勤時は声の出し方も世間話の仕方も忘れてしまっている為、どうにも職場の空気にうまくなじめない感覚を覚える。

2年間これを繰り返してきたので、人と会話するモードに切り替わるのにはだいたい1日を要する事が分かっている。

 

そういえば、昨日は友人におすすめされていたカレー屋さんの近くを通ったので、せっかくなのでそこで昼食をとった。

その日はひどい雨で、私のほかにはお客さんは一人しかおらず、なんだか店員さんとしゃべらなければならない空気になっていたのをよく覚えている。

でも、休日はだいたい誰とも会話したくないモードだ。

まさかそんな気楽に話しかけられるようなお店だとは思っていなかったので、関西弁で元気よく話しかけられる状況に非常に戸惑ってしまった。

無言でカレーを受け取り、無言で食べ、ご馳走様と一言いって店を後にするのを想像していたので、現実とのギャップでなんだか居心地の悪さと店員さんへの申し訳なさが胸いっぱいに広がっていた。

カレーは美味しかった。

評判のお店らしく、グーグルマップでも★4つ以上の評価のお店だった。

店員さんの愛想のよさも人気の理由だろう。

せっかくの人気店に私という不愛想な客のせいで何かケチがつきやしなかっただろうか、と心によぎるが、まあそんなことは考える必要もないだろうし、きっと余計なお世話だろう。

セロリカレーという見慣れないメニューを頼んだけれど、シャキシャキしていておいしかった。

最近は妙にセロリと縁がある。

また今度、次は天気の良い日に行ってみよう。

次はもう少し愛想の良いモードで。

 

この素敵なカレー屋さんを教えてくれた友人にも久々に会いたいな、と思いつつ自分からは声をかけず何か月も経ってしまった。

元気にしているだろうか。

世の中の人は友人をごはんや遊びに誘う時、どんな心持でいるのだろうか。

モチベーションはどんなだろうか。どんな風に誘えばいいのだろうか。

誘われる側の時は考えなくてもいいことが多すぎて、なんだかんだで行動に起こす気にならない。

でも、今はそれで良いような気がしている。

声を掛けたいと思った時に声を掛ければいいだろう。

 

よく分からないけれど、なんだかんだで1400文字を超えている。

文章を書くって、簡単なようで難しい。

何のまとまりもないけれど、こんな感じでいいだろうか。

結びの言葉も何を書けばいいのかよく分からない。

今日はもう寝よう。

繰り返されるメンタル不調

メンタルが芳しくない。

 

待ちに待った10連休がスタートするということで、昨日の夜はストロングゼロを飲みながら、明日から休みだ!自由だ!という気分を存分に堪能していた。

Lonelyというアプリで見ず知らずの人と下らない会話をして盛り上がったり、ちょっとふらっと遠出してみようかと画策してみたり、これから始まる10日間という長すぎるくらいの自由な時間に思いを馳せていた。

といっても、点点とした予定は入っている為、まるまる10日間自由に過ごせるわけではなく、ライブに備えてドラムの練習をしたり、バンド全員で練習に入ったりしないといけないという趣味という名の義務は存在する。

それでも有り余るほどの休み時間、浮かれていられないわけがない!

ということで、何でも出来るような気持ちになっていたのが昨日の夜の事だった。

 

それが一転、今は絶賛メンタル不調に苛まれている。

一つの大きな原因としては、昨日の夜飲んだストロングゼロだ。

最近は目に見えてお酒に弱くなってしまっており、ストロングゼロ500ml缶一本だけでそこそこの酔い具合に到達してしまう。

そして極めつけは、次の日へのお酒の残り具合だ。

酔い越しの酒は語るなというが、最近はどれだけ微量のお酒だったとしても次の日に必ずと言っていいほど身体の不調として現れる事になっている。

今日の症状は、ありがちではあるがひどい頭痛だった。

朝6時頃に目が覚め、それからほぼ1日中、頭痛に苛まれていた。

あまりのひどさに布団から起き上がることもかなわず、午前中はずっと床に臥せていた。

しかし、何も口にしないでいては余計頭痛はひどくなる一方であることはわかっているので、13時ごろにどうにかシャワーを浴び、外へ出かけることにした。

二日酔いには肉うどんが良いということで、うどん屋へ車を走らせ、冷たい肉ぶっかけうどんを注文した。

今日は昨日と打って変わって非常に肌寒く、冷たいうどんを注文する私に店員さんは少し戸惑いの色を見せていたが、出てきた肉ぶっかけは二日酔いの身体に染みわたるおいしさだった。

うどんの冷たさが胃に心地よい。

香川県民はうどんを噛まずに飲み込むとよくいうが、のど越しの心地よさもあいまり、噛まない気持ちも分かるなあと思った。

それから行きつけのカフェに行って読書しようと試みるも、依然として頭が痛くて何も文字を読む気にならない。

しばらく無理してKindleの画面を見つめてはいたものの、すぐに限界がきてしばらく机に臥せってしまった。

レモンスカッシュを飲み干してすぐ席を立ち、軽く買い物を済ませて帰宅し、晩御飯を食べて今に至っている。

そして今、未だ頭が痛い。ふらふらする。

何も考える気力も湧かず、身体は今すぐにでも横になって眠りたいと訴えかけてきてはいるが、二日酔いに一日を完全に奪われつつある今、せめてもの抵抗としてこうして筆を走らせている。

大した内容じゃなくていい、ただの日記としてでも良い、何か形として今日一日の足跡を残しておきたい、その一心だ。

それに、メンタル不調の原因を探る手立てにもなるかもしれない。

 

もう一つのメンタル不調の原因としては、単純に、10連休が案の定暇だという事だ。

一人でどこか遠出しようかと画策してはみたものの、いまいち目的がピンとこないのだ。

何日も家にこもり、読書漬けになるのも悪くは無いが、どうせなら遠出して何か普段できないような体験をしてみたい。

でも、普段できないような体験って、具体的に言うと何なのだろうか・・・?

結局そこから先が何も浮かばず、いまいち行動に起こす気にならないでいる現状にやや絶望し、一人で勝手にメンタルに不調をきたしているのだろう。

要するに、やりたいことがわからない、を今まさに体現しているという事だ。

頭の片隅に、やりたいことがわからないなんて青臭いしダサいな、という声が聞こえる気がする。

でも、わからないのだから仕方ない。

本来ならばこういう時、難しく考えずにとりあえず家を飛び出してみよう!と行動を先行させられる余裕のある人であれば、訳が分からずとも、思いがけない何かしらの成果がきっとついてくるのだろう。

なぜなら、世の中に比べて自分の中だけで完結している世界はあまりにも狭いから。

けれど、私に余裕が無い事は私自身が良く知っている。

行動力溢れる人のマネをして家を飛び出してみても、目的はおろかやりたい事すらも定まらないままでは、あらゆるチャンスを掴み損ね続け、時間と体力を浪費するだけになる可能性が高い。

あくまで経験則ではあるが。

こんな風に、やりたいことが分からない、なんて青臭い事でどうすればいいか分からなくなっている自分に対しても、自信が無くてうだうだと御託を並べては結局行動に移せない自分に対しても、そして、そんな自分に対して「そんなんじゃだめだろう」と否定的な感情を向けてしまう自分に対してさえも、うんざりするような、やりきれないような気持ちを抱いている。

 

最後の一つは、これはやや言語化が難しいのだが、Youtubeで見られるあるチャンネルの動画を見て、「この人すごく頭悪そうだな」と思ってしまった事だ。

そのチャンネルは自己啓発系の内容の動画をアップロードしていて、チャンネル登録主が視聴者に対して「自分を知るとはどういうことか」を説くものとなっている。

その動画を見る中で、個人的にかなり気になってしまった点が次の3点である。

①抽象的な言い回しばかり多用し、具体性が感じられない点

②Youtuber特有の、言葉に詰まったところを編集でカットし、流ちょうに見せている点(ここで胡散臭さが生まれる)

③明らかにカンペをちらちら見ている様子、どこか自信なさげな様子がうかがえる点

これら三点から、このチャンネルは見る価値が無いなと思ってしまった。

しかし、それでもそこそこ収益を得ている内容のようで、いまいち納得がいかない。

同氏のブログ等を読んでみても、文章や図表の内容が稚拙で、中身もブレブレで抽象的な印象を受け、なぜこの人がそんなに収益を得られているのかが分からなかった。

案の定、支持している層の一部を見てみても、胡散臭い抽象的で聞き心地の良い言葉に吸い寄せられやすいタイプの人間たちが多いように感じる。

あ、これはかなり嫌いなタイプのコミュニティだな、と思った。

似たような人間だけが吸い寄せられ、ある一定の支持を得、それでモチベーション付けられた本人が更にコンテンツに力を入れ始め、その界隈だけでどんどん盛り上がっていく。

だいたいどの分野も同じような経緯を辿るものではあると思うが、このタイプの界隈で厄介なのは、あくまで「似たような人間」ばかりが集まっているが故、支持している側も実はやや相手を見下しているというような状況になり易い事だ。

その証拠に、そのチャンネル登録主のインタビュー記事を読んでみると、あくまで主観ではあるが、どこか小ばかにしているようなニュアンスが感じ取られるものだった。

バイアスがかかっているというのも影響しているだろうが、「持ち上げているように見せている」感のある記事であったように思う。

こうして陰湿に祭り上げるくらいであれば、そもそも最初から興味を示さなければいいのに、どうしてこんなコミュニティが生まれてしまうんだろう、という思いから、ひどく具合が悪くなってしまった。

その状況に関しては、件のチャンネル登録主にも同情をする。

・・・とはいうものの、そんな反吐の出るような状況にありはしても、それでも件の主は実際に行動を起こし、収益という確かな結果を残している。

それに対して自分は、ただそれを端から覗き、くどくどと批判的な意見をこうして吐露しているのみである。

そんな自分を客観視した時に、行動して結果を出している人間と、何も行動せず批判ばかりしている人間の対比構造の真っただ中にいる事を実感し、ひどく情けない気持ちになってしまった。

このように、コミュニティの質に対する嫌悪感と、当事者の境遇の追体験、そして自分に対する自己嫌悪の三つが同時に押し寄せてくる事になるので、この手の胡散臭い人間が祭り上げられている様子を見るのは精神的にかなり負担を強いられてしまう。

 

以上で、本日の自分の内面を出来る限り言語化したつもりだ。

途中で忘れていた頭の痛みも復活してきた為、この文章を読み返し、何を思うかは明日以降の自分に任せようと思う。

やる気が出ない気持ち

私に責任感が皆無であるという話は前にも書いたとおりだ。

 

仕事というのは、「約束を守ること」だという事を最近よく感じる。

あらかじめ約束した納期通りに、あらかじめ約束した事をする。

そして、やり遂げるまでの時間、やり遂げる事の質、あらかじめ約束した対価を得る。

ここに、QCDという三つの要素がある。

三つの要素があるということは、一つの仕事をこなすには三つの約束を守らなければならないということだ。

期日の約束、質の約束、対価の約束である。

 

世の中は大量の仕事が複雑に絡み合った結果としてその日その日を流れていく。

〇〇日までにAさんが〇〇を用意してくれて、▽▽日までにBさんが××の話をつけてくれる、だから□□はいつから始められていつまでに終わって、実際にお客さんに納品するのはいついつになる・・・。

ストレートでつながる仕事もあれば、並列に流れる仕事もある。

そのうち一つでも滞ってしまうと、全体の流れに遅れがでてしまう。

だから一人一人は納期を必ず守らなければいけないし、質も保障しなければいけない・・・。

書いているだけで気が滅入ってくるようだけれど、たったこれだけの事を守る為に世の中の人々は必死に働いている。

どれか一つでも納期が滞ってしまうと、全ての流れに影響が出てしまう。

だから、仕事が出来ない人間に対して世の人々は烈火の如く怒るのだ。

 

仕事にも大小があり、その規模感によって自由度が上がり、責任も重くなる傾向にある。

規模が大きくなればなるほど、小規模な仕事を複雑に絡み合わせて成り立たせる必要がある。

例えば、〇〇日までにこの部品をお客様に納品する仕事、〇〇日までにオフィスの移管を完遂させる仕事、という、中程度の規模のものから、もっと大きなくくりで言うと、会社の利益を〇〇%上昇させる事だとか、組織の人間の満足度を向上させることだとか、一律な答えのない仕事というものもあるだろう。

どんなに答えのない事でも、その仕事を任された人が全体の結果の責任を持つことになる。

思い通りに仕事をする為にはそれぞれの小さな役割をもった人が確実に仕事を完遂させる必要があるので、「仕事の出来る人」が組織に好まれ易いのは必然だ。

また同時に、小さな役割を任された人は、仕事を完遂させることにしっかりと責任をもたなければならない。

そしておそらく、「仕事が出来る人」というのは、「頭が良い」だとか「知識が豊富」だとかそういう専門的な能力の話ではなく、仕事の細分化⇒段取り⇒人の割り当て⇒見積もり⇒全体管理の流れがスムーズに、かつ確実にできる人の事を指している。

専門的な技能や知識はあくまでも仕事の内容に付随するものであって、「仕事」自体の能力はおそらくどんな分野でも共通して、上記の調整能力の事を指しているのだろうと感じる。

「頭はいいけれど仕事はできない」と言われるような人が生まれるのは、こういったことが原因である可能性が高い。

 

要は、どんな境遇であろうと、自分に与えられた仕事は責任をもって確実にこなし、結果を出していれば「仕事の出来る人」となる。

逆に、どんなに内容の軽いものでも、いい加減に仕事を行っていると、簡単に信頼を失うことになる。

頭では、わかっている。

でも、どうしてもやる気が出ない。

この、どうしてもやる気が出ない、という部分が今回の本題だ。

 

小さな仕事も全て大きな流れに繋がっているんだから、一つ一つの仕事に責任を持たなければならない、という意見についてはよく理解できる。

でも、どうしてもいまいち納得感が得られないのだ。

同じ職場の仲間に迷惑がかかるんだから、しっかりやらなければならない、という考えが浮かぶ。

けれど、「迷惑」って何なのだろう?

この仕事を任されたんだから、最後まできっちり責任をもってやり遂げるべきだ、という考えが浮かぶ。

けれど、どうしても自分じゃなきゃいけない理由って何なのだろう?

自分じゃなきゃいけない理由なんていうのは、「その仕事をあなたに任されたからだ」以上のものはない、という考えが浮かぶ。

けれど、じゃあその仕事はそもそも何のためにしているのだろう?どうしてもやらなければいけないものなのだろうか?実はやる必要なんて無いのではないだろうか?

誰が「必要」だって決めたんだろうか?

実際のところは、面倒くさいことはやりたくないという思いから現実逃避の為にこんな屁理屈ばかりを並べているといわれても否定出来ないが、それくらい一つ一つの仕事に対していまいち納得感が得られない毎日を過ごしている。

おそらく、そんな納得感を感じながら仕事をしている人なんてほとんどいないのだろう。

仕事に対する納得感よりも、仕事を完遂することによる社会的な信頼を構築できている実感であったり、社内のコミュニティの広がりであったり、社会的地位の向上を対価として受け取っている事、お金を受け取っている事をモチベーションに、日々仕事にまい進しているのだろうと予想をしている。

なんとなく、それなら頑張ってやろうか、という気持ちになるのは理解できる。

でも、そんなのって全然つまらないと感じる。

これは自分勝手なのだろうか。

なんとかしないと

なにもかもに責任感が持てず全てを投げ出してしまいたい衝動に駆られる事がある。

 

いままではそんな自分の内面に薄々気づいてはいながらも、必死で見て見ぬ振りをしたり、そんなでは駄目だと自らに鞭を打ち、周りと比較して自分を否定し、なるべく周りと同じようにいよう、決して周りからあぶれないようにしよう、という思いでやってきた。

自分を否定することが、いままでの自分の向上心のモチベーションみたいなものだった。

 

いまは、自分を否定することにも疲れて、いままで見て見ぬ振りをしてきた自分の弱さを積極的に受け入れていこうという方向で日々生きている。

だから、以前と比べるとだいぶ自分がどういう人間なのか、なんとなく分かるようになってはきたし、これでいいんだ、と思えることも大分増えてきた。

それに、自分を知ることが出来たことで、以前よりも人からは自分が魅力的に写っているのではないかとも思える。

以前と比べると、大分のびのびとした精神状態でいることが多くなった。

 

その一方で、今までの向上心のモチベーションだった自己否定という原動力を失ったことで、抽象とするけれど「がんばる」ことが出来なくなって来ていることもひしひしと感じている。

前と比べると、必死になることが明らかに少なくなった。

自分を否定することで必死に自分を変えようと努力をしていた人間が、自分を認め始めたことで変化が止まってしまっているのが、今の自分なのではないだろうか。

そんな葛藤が日々頭のどこかに引っかかっている。

以前と比較すると自己肯定感はかなり持ててきているし、精神状態は安定して来ているのにもかかわらず、以前よりもずっと元気が無くなっている気がする。

不気味な自己肯定感と無気力感に苛まれ、なんにも責任を取る気にもならず、かといって仕事を辞めて生きていく行動を起こすような熱中できるようなものもなく、フィルター越しに世界を傍観しているような不感症の毎日を過ごしている。

アウトプットのこと

文章というのは書き始めが一番難しい。

難しいというのは、モチベーション面と内容面、どちらのことも指している。

モチベーション面としては、白紙の画面を目の前にすると、一瞬、あれ、なんで文章を書こうと思ったんだっけ、なんでこんなことをしようとしているんだろう、これがなんの意味があるんだろう、と迷いが生まれるところに難しさがあると思う。

そこから書き始めるためにはそれなりに自分を奮い立たせる必要があるのだけれど、そういうふうにある種無理やり書き始めてしまうと、後で読み返した時に恥ずかしくなってしまうくらいのグダグダなものだったら嫌だな、とネガティブな想像までしてしまって、余計に筆が重くなる。

それでも今書き始めることができたのは、どんな内容であれ、自分で書いた文章を読み返した時、ああ、自分はこんなことを考えているんだ、こんなことを感じているんだ、と再確認する作業の安心感みたいなものをよく知っているからだ。

内容面の難しさとしては、頭の中にいろいろな思いが渦巻いている状態だと、何をとっかかりに何について書き始めるべきか定まらないところにあると思う。

普段アウトプットらしいアウトプットを出さない生活を送っていると、様々な日々感じたことや、自分の思いというのが蓄積されていき、それらが複雑に絡まりあってしまうことにより、だんだん自分がなにを考えているのかがわからなくなっていく。

ひとつひとつの内容は、取るに足らない他愛もない事だ。

職場の人の何気ない嫌味な一言にイラッとしたこと、世の中の創意に溢れた製品の構造を学び感心したこと、四月に入り花粉症が悪化して、鼻をかみ過ぎて肌がぼろぼろになったこと、仕事をするうえでの姿勢、モチベーションが未だに今ひとつ定まっていないこと。

思いや出来事が蓄積されていく一方で、全く整理が出来ていないのだと思う。

会話すること自体が億劫なので、誰かに話して整理するということも出来ない為、余計その傾向が強いのだろう。

今こうして文章を書き始めたのは、自分は一体今どういう気持ちなんだろうという事をできるだけ客観的に見ようと思ったからだ。

ここまで書き上げてみると、抽象的な内容になってはいるけれど、ある程度は頭の整理になったような気もする。

全然関係ない話ではあるが、抽象と具体の関係で最近気づいたのは、自分には具体性の面が足りていないということだ。

ずぼらな性格もあいまり、昔から物事を大枠で捉える癖がある。

具体的に捉える、というのは時間の無駄であり、抽象的にさえ理解していれば具体性はいくらでも後付けできるだろうという考えがあったからだ。

だけど、抽象的な面は基本的に頭の中にしか存在せず、実際に人が手を動かす為には具体性が無ければならない。

抽象から具体へ落とし込む作業にはとても時間とエネルギーがかかるから、具体的な内容を予め知っておく事が、生活する上ではとても効率が良い。

そんな簡単な事だけれど、最近の中で一番大きな気づきだったので、ここに一旦走り書きしておく。

 

散髪に行くことすらままならない

身だしなみを見ることでその人が信頼置ける人かどうかを測る、というのは理にかなっていると思う。

 

どうにも気分が沈んでしまっているときは基本的に布団から出る事すらできず、無為に時間を過ごしてしまう事がよくある。

何をしていても憂鬱で、日常の本来やるべきこと(皿洗い、部屋の片づけ、爪切り、買い物、などなど・・・)に手を付けようとしても、「どうせそれが幸せに直結するわけではないし」というような空しさにとらわれ、結局何にもできずに1日が終わってしまう。

何かを行った後、即効的にかつ目に見えるプラスのフィードバックが無ければモチベーションが保てない。

要するにだらしがない人間なのだ。

髪が伸びてきていることも、自分の中のそういうだらしなさが表出された結果の一つであるように思う。

毎回髪型を説明するのも億劫なので、髪を切る店はここ、切ってもらう人はこの人というふうに決めている。

もともとはある美容室のスタッフの一人だった人なのだが、今は独立して自分の店を構えている。

その店にはその人しかスタッフがいない為、必然的に繁忙期にはあっという間に予約が埋まってしまう。

年末年始に予約がいっぱいになることなんて、ちょっと考えれば簡単に予想のできる話だった。

しかし、例の如くだらしのない私は予約を取り付ける時期を先延ばし先延ばしにし、気が付けばこんな時期になってしまっている。

年末ですらそこそこの長さだった髪は更にその長さを増し、社会人としてギリギリアウトのラインまで来ている、と思う。

そんな状況になってようやく重い腰を上げ、お店に連絡をしてみた。

この3連休はもう予約でいっぱいだった。まあそれは予想通りだ。

しかしまさか、来週の土日まで一杯になってしまっているとはだれが予想しただろうか。

これでは私はいつ髪を切ればいいんだ。

今週は忙しいので、平日仕事終わりに寄るのは無理だ。店の開いている時間に仕事が終わる保障はないし、そもそもちょっとしたトラブルですぐ予定は崩れてしまう。

唯一予約の空いている再来週の日曜日まで待ってしまうと、この長い髪はいったいどこまで伸びてしまうのだろう。

考えただけで怖い。

自分で切ろうか。しかしそんなうまく切れた試しはないし、むしろ髪を切る前よりも社会人らしからぬ髪型になってしまうリスクがある。

怖い。

もういっそのこと、髪が長いのがなんだ、誰に迷惑をかけるわけでもない、と開き直ってしまおうか。

そんな思考の繰り返しをしている。

それに開き直ったところで自分のだらしなさをごまかせる訳でもなく、そんな自分の不甲斐なさに人知れずさらに落ち込んでしまうことは必至だ。

 

先延ばしにすることで苦しむのは結局自分だとわかっていても、どうしても先延ばしにしてしまう。

そんな人間はきっと山ほどいて、そんなだらしのない人間のうちの一人に成り下がってしまっている自分を思うと、不甲斐ないというか、空しい気持ちに襲われてしまう。

そしてこの3連休が終わりをつげ、明日からまた新たな一週間が始まろうとしている事実が後押しをし、いよいよ順調に憂鬱な夜の闇へと堕ちて行きつつある。

せっかくの久々の友人からのラインも未だ返していない。

散髪の予約日の確認のラインにもまだ返信していない。

やらなきゃいけないけれど出来ていない、手を付けてすらいない資料もある。

練習しなければいけない曲もあるし、忙しさにかまけて先延ばしにしてきた案件で今まさに火を噴く予兆を感じさせる動きもある。

どれもこれも過去の自分が見て見ぬふりをし続けてきたことの皺寄せであるし、そういう過去の無数のだらしがない自分が生み出してきた負の遺産と対峙しなければならない宿命を思うと、今更どうしようもない自責の念ややりきれなさ、情けない気持ち、ある種の行き場のない怒りのようなもの、そういったドロドロした感情の全てが胸の奥で入り混じって、最終的に行きつくのは「会社が爆発すればいいのに」というような他力本願な願いだったりする。

悲しくなるくらい不毛な願いだけれど、本人にとってはそれなりに切実な願いだったりする。

普段から先を見据えて一つ一つの行動をしていればこのような事にはならないのだろうが、どうしてもそんなことが出来る自分というのがいまいちイメージできない。

イメージ出来たところで、実践できるのかどうかすらわからない。

26年間付き合ってきたこのだらしのない自分と、この社会的責任の問われる生活を送っていく為に、どのようにして自分の性質と付き合っていけば良いのだろうか。

 

と、無理やり問題提起をして前向きな雰囲気を醸し出してみたは良いものの、そんな問題に対して今真剣に頭を悩ませる体力や精神的余裕を持ち合わせていない為、問題提起に対する解決案の立案はこのブログを再読した未来の自分に任せようと思う。

とにかく今のもやもやを書き出すことが本日の目的であるので、肝心の部分は先延ばしにして今回は終わりとする。