雑記帳

もう駄目だと思った時の、最後の拠り所です。

リハビリ日記

これは、下記の分をあらかた書き終わった後の感想になるが、誰に何を伝える為でもなく、文章を書く為ですらなく、ただ文章を書くという行為自体をするためだけに文を羅列した、というのが一番しっくりきたので、「リハビリ日記」という題名とした。

 

久々にパソコンの前に向かい、何か文章を書いてみようとおもう。

 

何がきっかけになっているのかは、自分でもよく分からない。

ただたんに、しばらく時間が空いているし、ふと気が向いたからだと思う。

すごく中途半端な時間で、特に他に何もやることが無い。

洗濯物は取り込んでいるし、ごはんは今炊いている。

洗い物も終わっている。

晩御飯のメニューも決まった。

しいて言えばトイレットペーパーが最後の1ロールになっていたから、トイレットペーパーは買いに行かなければならないけれど、外は寒いし、雨が降っていたから足元も悪いし、なんだか気が進まない。

だからといって、何のためにこのような文章を書こうとしているのかは分からない。

ただただ無目的に、何の整理もしていない思考の羅列がつらつらと目の前に文字としておこされて行っているだけだ。

それでも何か一つ挙げるとすれば、こうして頭の中身を文章におこしていくという作業自体で、なんだか頭が整理されていくような気がすることくらいだ。

頭の中は漠然と思考が渦巻いていて、一つの事を考えているような、何か複数の事を並行して考えているような(理性と欲望 みたいなものだろうか)気がする。

でも、文章におこすと、思考はその頭の中の渦巻の中から、なんらかの形で一つ選び出され、言葉に翻訳してキーボードを打ち込むという工程にかけられることになる。

それを後から自分で読み返すと、ああ、自分はこんなことを考えていたんだな、というようなことが分かるし、渦巻いていた思考が取り除かれ、目の前の画面が自分の脳みそを肩代わりしてくれて、頭の中が軽くなったような気がするのだ。

わざわざ自分の脳みそを働かせなくても、文章を読み返すだけで、その時の思考の流れを再生することが出来る。

よくわからないけどそんなことだから、こうして文章を書いて読み返すという行為自体がなんだか安心するのだ。

仕事でも、メールもたくさん打つし、報告書もたくさん作る。

だから、日々このようにパソコンの前に座って文を読んだり分を作ったりということは繰り返していることになる。

でも、人に仕事を依頼したいときや、何かを伝えたい時に文章を書く時と、こうしてただ頭の中を羅列するだけの文章を書く時とでは、なんだかまるで別の事をしているみたいだ。

無目的に何も整理せずに文章がだらだら続いていく不安感、それでも関係なしに頭の中ではなんの脈絡もない言葉が次々と浮かんでくるから、とりあえず書いてみよう、でも一応、最低限前後の繋がりや日本語としては成り立たせる範囲で取捨選択をしよう、といった具合だ。

文章自体を商品とする仕事をする人は、ことさらエッセイストみたいな随筆家の人達は、一体どんな頭の使い方をして文を書いているのだろうか。何のために、誰に何を伝えるために文章を書いているのだろうか。さくらももこでも読んで勉強してみようか。

エッセイストは自分の頭の中を羅列するだけて本を出版出来ているんだから、なんというか相当ラッキーな能力を持っているよな、と思う。

まあきっとこんな何も考えずに文章だけを書きおこしていくだけでは到底本にはならないのだろうけれど。

 

人に読まれることを意識していればこんなに恥ずかしい文章は書けないだろうなと思う。

このような形で完全に私用でしか使わない雑記スペースを与えてくれているはてなブログに感謝。