雑記帳

もう駄目だと思った時の、最後の拠り所です。

ぐるぐる考えて書き下してみる

社会人になってから、自分はこの先どうなってしまうんだろうか、というような漠然とした不安が大きくなってきている気がする。

さいころ想像していた「大人」のような存在は、少なくとも自分の中には未だ存在せず、26歳ではあるが中身は小さいころからほとんど変わっていないように思う。

それが果たしてみんな同じなのか、それとも自分だけなのかはよく分からない。

ただ、職場の同僚たちや昔からの友人たちとしゃべっていても、特に大きな問題なく社会に溶け込んで生活を行えてはいるが、中身は昔からほとんど変わっていないように思う。

そう考えると、社会の大半はこんな子供みたいな中身を持つ人達で構成されているようであり、そうだとするとよくもまあなんとか成り立っているなあと感じる。

 

それはさておき、現状ではありがたいことに経済的に比較的余裕のある生活を行えており(独り身だからというのもあるとは思うが)、仕事に費やす時間もブラック企業と言うには比較的少なめであるから、こうして自分の時間を持つ事も出来ている。

学生のころからそんなに活発に活動する質ではなかったので、社会に出てから変わったことといえば朝起きるのが早くなった事くらいで、あとは特に不自由なことは感じていない。

定期的に1週間くらいまとまった休みが欲しい!と思うことはよくあるけれど、それはまあ学生の時も似たようなことをよく思っていたので、結局はあまり変化していないのだと思う。

このまま順調にいけば、仕事も少しずつ1人前に近づいていき、そのうち部下を持って充実した会社員生活を続け、(予定はないけれど)いつか結婚をして子供をもうけ、家庭を持ち、というような絵にかいたような筋道を辿って行くのかもしれないなあというように漠然と頭に浮かべる事はある。

もちろんそんな順調に行かず、会社では思うように成果が挙がらずに影の薄い存在になっているかもしれないし、ずっと独り身のままかもしれない。

それは一旦置いておくとして、じゃあ、自分は今の会社でバリバリ出世していき、それで満足できるのか?結婚して家族を持ちたいと本当に思っているのか?と言う問いにはっきりと答えられない自分が居て、自分の中にこれから一生懸命生きていく動機のようなものが欠けているのではないかというような思いにとらわれる事がある。

言い方は極端になってしまうけれど、惰性で生きているような、そんな気分になることがある。

 

最近、Facebookで小中高大のかつての友人たちが今どうしているのか、というのを見て回るということをやってみた。

まあ自分もそうであるように、ほとんどの人が更新停止状態で近況ははっきりとはわからなかったけれど、1年~数年前あげた近況報告内容から結婚して子供がいることが分かったり、どこで勤めているかが分かったり、すごい量の啓発じみた投稿を続けている人がいたりと、多種多様にしていることが分かった。

SNS上で見ると、どの人もそれぞれに充実して幸せそうな様子が感じられた。

みんな元気にしているんだなあ、なんだか懐かしいなあ、とか、あまりに順調そうな様子を見てちょっと劣等感が兆したりとか、よくある種類の感傷に耽っていた。

ひとしきり浸った後で、でも、じゃあ俺はどうなんだろう?と自分を振り返ってみた時、ひどく空っぽで何もないように思えて、なんだかむなしい気持ちが湧いてきた。

ひどく陳腐に聞こえてしまうけれど、ストレートに表現すると、まさに「自分はなんの為に生きているんだろう」といった気持ちだった。

とはいってもやはり、女の人にはちやほやされたいし、お金を稼いでぱっと見ではわからないけれどさりげなくオシャレで良い物を着飾ったりしたいし、美味しいものをたくさん食べたいし、綺麗な奥さんと元気な子供を見守っていたいし、といったようなわかりやすい欲はある。

むしろそれがすべてみたいなところはある。

なりたい自分に近づこうと努力し、どうしても自分には手に入らないものを他人が息をするように手にしているのを目にして、どうしようもない劣等感を感じたりすることだってある。

でも、このまま「普通」にそういう事を目指して、手に入るものは手に入れ、手に入らないものはあきらめ、取捨選択して行ったところで、そこから何になるんだろうと考えてしまう自分も確かに存在する。

そんな自分が22歳ごろからどんどん自分の中で存在感を増していき、今では目に見えて他人に対する興味が失せてきている。

その証拠に、Facebook上に見える他人の楽しそうな人生の事をうらやむ気持ちが、昔よりも明らかに小さくなっていた。

昔から負けず嫌いで劣等感には敏感な性格をしていたはずのに、これはいったいどうしたことだろうか。

年齢を重ねるにつれ次第にありのままの自分を受け入れ落ち着いてきたからのか(ありのままの自分ってそもそも何なんだ)、他人は他人、自分は自分というような分別がつくようになってきたからなのかは、よくわからない。

現状で不満な事はまあ(特に仕事面で)いろいろあるけれど、でも、たまの休みにこうして自室でゆっくり出来ていたり、気ままにどこかへ出かけたり、定期的に昔の友人とお酒を飲んだりする生活にある程度満足しており、比較的落ち着いてしまっている感がある。

今感じている不満な事だって基本的には自分の至らなさが起因している事ばかりで、もっと精進していかなきゃいけないなあとか、そんな程度の事を考えるくらいになっている。

わざわざ自分が、こういった環境を思いっきり変えてやる!といったようなアクティブな思考にはとてもじゃないけれど至りそうもない。

そんな状態でこのまま30歳、40歳と年を重ねていって、退屈しやしないだろうか?

ただでさえ今でもなんだか退屈な気がしているのに、このままずっとこうなのだろうか?

むしろこれからどんどん老いていき、体力も勢いもなくなっていくはずであるから、いまよりもよっぽど退屈になってしまうのではないだろうか?

今でさえ普段の何気ない生活の中、歯を磨いていたり、朝ごはんをつくっていたり、服を買い物していたり、何気ない一つ一つの行動をしている際にふと、そんなことをが頭をよぎり、目の前にあるものが急に色あせて感じ、なにもかもが空しくなったりといったことが、ここ数年かなりの頻度でやってくるのに?

そうだとすると、空しい気持ちとの付き合いはこれから先死ぬまで続くのかもしれない。

 

いろんなことがうまくいったりいかなかったりして、その度に一喜一憂してつかの間の満足感を得られていったとしても、それはただ一時的に気を紛らわせているだけで、ふと我に返った時にはきっとそういったすべてが空しくなるような瞬間というのはいつでもそこに在り、これから先もずっとずっとついてくる、そんな気がしてならない。

どれだけその瞬間楽しめていたとしても、ふと気を抜いた瞬間、そういう落とし穴のような気分になり得ると思うと、どれだけ努力して楽しく幸せな時間を獲得したところで、本質的には今のこのどうしようもなく空しい気分になっている自分と何も変わりはしないんだな、という風に考えてしまう。

こういう気持ちは、自覚しているかどうかはさておき、誰しもが持っているものだという確信がなぜかある。

だから、どんなに楽しそうで幸せに過ごしている他人を見たところで、あるいはこの世の全てを呪っていてもおかしくないような状況に立たされている他人を見たところで、本質的にはみんな同じなんだろうなあと感じる。

みんな自分の中に潜んでいるそういう退屈とか、空しさみたいなものをなるべく見て見ぬふりする為に必死で日々の生活を充実させようとしたりしているんだろうなあと考えると、言葉は悪いけれどなんだか全部下らないなあとすら思えてくる。

そうやって誤魔化し誤魔化し生きていくよりも、この自分の中に巣食っているどうしようもない空しさとどうやって向き合って生きてくかの方が重要なんじゃないかな、というふうにも考えてみる。

「死」との向き合い方と同じように、この空しさもまた向き合っていくべき事であると思う。

世の人々は「死」には鈍感で、自分からはあまり縁のないものだと考えているけれど、極端な話人はいつでもどこでも死に得るのが事実であり、「死」はいつでも身近な存在であるはずだ。

人々はなるべく自分を「死」から遠い存在であるとしたいが為に、「死」に蓋をして、なるべく自分の目に入らないようにしている。それも無自覚に。

「死」と「空しさ」、扱いとしてはとても似ているものなのかもしれない。

 

ぐるぐる考えてみたところで答えが出る問題にも思えない。

それに、いくら下らない事だとは思っても、人生楽しいに越したことは無いと思うので、日々の生活をなんとか充実できるように努力することは健全なのだろう。

普段漠然と考えている事を思いつくがままに書き下すことが出来て、疲れた半面すっきりできたので、ひとまずここで終わりとする。

料理、はじめてみました

自炊というものを今までほとんどしてこなかったのだが、二週間ほど前にふと自分で作った料理を肴に晩酌をしてみようと思い立ち、夜の8時を回っていたにもかかわらず献立を考え、材料をリストアップし、近所のスーパーへ車を走らせた

この間先輩が茄子の煮浸しが美味しかったと言っていたな、よし、作ろう

このえのきのベーコン巻きって簡単で美味しそうだな、えのきはあるからあとはベーコンがいるな

大葉も巻いてみよう

シーフードミックスが余ってるからアヒージョにしよう

アヒージョにはバゲットが必須だよな

洋風っぽくなってきたからお酒はワインにしよう

日中これといった行動もせず泥のように過ごしていた反動で、唐突な思い立ちにもかかわらず、自分でも驚くほどの行動力が湧いていた

便利な世の中になったもので、アプリを使えば料理の動画とレシピがすぐに調べられる

料理に関して完全に素人ではあるが、見様見真似でもそこそこ悪くない料理がいつのまにか出来上がっていた

茄子の煮浸しになすを丸々二本分使ってしまったのもあり、全体としてはかなり量が多めであったけれど、自分で作り上げたんだという達成感からか、難なく平らげてしまった

 

そんなことがきっかけとなり、週末になると何かしらの料理を作るのが楽しみになってきている

どうせ週末にやることといえば布団の中でひたすら身体を休めるか、持ち帰った仕事をするか、行くあてもなく外出するかしかない

布団の中で時間を無為にしたり、外出先での食事やカフェでの一休みに逐一お金を費やすくらいであれば、自分で食事を用意したほうが金銭的にも精神的にも豊かな行為であるように思う

事実として、カフェで食事をできる程度のお金で食材を買い込むことができるし、料理をしているという事実だけで何故だか、今、自分は立派に生活できているんだ、というような自信が湧いてくる

必要な食材を準備し、なるべく無駄がないように段取りを考え、あとはひたすら切る、茹でる、炒めるなどの作業をこなしていく

淡々と作業を進めているだけではあるが、野菜の水々しい感触、野菜を切った時や炒めている最中の香り、調味料や熱を加えると時事刻々と変化していく見た目、身体に伝わってくる熱や煙、油や水分の弾ける音、フライパンの上で踊るように跳ねる食材、料理の最中に感じられるそれら全てが、生活している実感として伝わって来るように思う

そうして出来上がった料理は美味しいし、お腹も満たされる

もし味や段取りに改善点があれば、次はもうちょっと麺つゆを増やしてみようだとか、前日から仕込んでおこうとか、様々なアイデアが浮かんでくる

こうしてみると、料理という行為には、計画、実行、確認、改善の四つの要素が明確な形でかつさりげなく配置されているのではないだろうか

料理という過程を通してその四つの要素を着実に進めているという実感が、楽しい気持ちをもたらしているのかもしれない

 

美味しいし、満たされるし、楽しい

 

これからも休みの日、どうしようもなく落ち込んできた時には、何か食べたいものを思い浮かべ、自分で料理していこうと思う

次は何を作ろうか

考えるだけでわくわくしてくる

自分の事しか考えていない

多分私は自分の事しか考えていない

 

最近、他人に興味がないように思う。

それはほんとうにいろいろな場面からそう感じている。

たとえば、人からラインなどで連絡がきても全く返さないとき。

たとえば、組織内で自分のパフォーマンスが維持できないと途端に興味が無くなる時。

たとえば、自分に直接的に関係する時事問題以外には全く興味が湧かない時。

たとえば、周りが盛り上がっていても自分が疲れてしまったらとにかく早く帰りたくなる時。

そんな自分はどこかおかしいのかもしれないと時々思う。

 

一方で、心のどこかで、人は誰でも根本的には自分の事しか考えていないから、別になにもおかしいことはないんじゃないか、とも思っている。

家入一真という人は、究極の利己は利他になる、ということを言っていた。

それはまさにその通りだと思う。

それを踏まえると、私がとにかくマイペースで人のことに関心がないようになってしまっているのは、何が将来自分の為になって、何が自分の将来の枷になるのかに対する想像力が疎いせいなんだろうな、と思っている。

 

人はそれぞれ幸せになる権利があると思うし、誰もその権利を侵害することは許されないと思うし、ほんとうに誰もが幸せになれればいいのに、と本気で思う。

そして、誰もが自分の幸せだけを考えて、それに向かって突き進むべきだと思う。

そんなことを言うと絶対に、そんな考えは甘い、人はやりたい事だけじゃなく、やりたくない事もやらないといけないんだ、と反論してくる人が必ずいると思う。

でもそんな反論は筋違いなんじゃないだろうか。

まず、やりたくないことをやる事と、その人が幸せかどうかには直接的な関係は無いだろう。

そして、みんなが自分の幸せに向かって突き進んでいる過程こそが今の社会だと私は考えている。

誰だって不幸せにはなりたくないし、やりたくない事をやっている人は、それをやる事で自分の大切なものを守っているはずだ。

大切なものというのは人それぞれで、お金であったり、肩書きであったり、居場所であったり、家族や恋人だったり、自分が幸せであるために必要だと感じるものすべてを指している。 

だからこそ人は毎日行きたくもない会社に行くし、遅くまで残業するし、楽しくもない飲み会にも出席するし、面倒な親戚づきあいもするし、特に親しくもない人の結婚式に高いご祝儀を持って行ったりするんじゃないだろうか。

ただ人は当初の目的をすぐ見失ってしまう生き物だから、自分がなんのためにそんなことをしているのか分からなくなって、なんで自分はこんなに不幸なんだ、こんな社会はおかしい、と言う人も出てくるんだと思う。

たしかに今の社会の構造は複雑で、誰もが幸せになれるようなものではないだろう。

誰もが幸せになる為にはまだまだ乗り越えるべき課題は山積みなんだろうと、社会情勢とか、時事問題に極端に疎い私にでも容易に想像出来る。

でもその成り立ちは案外単純で、誰もが自分の幸せのみを考えて突き進み、結果として力を持っていて、かつ運のいい人が色々なことを成し遂げていき、力が無かったり運の悪かったりした人が、隙間をぬって賢く生きていたり、力を持つ人のおこぼれに預かろうとしたり、隅へ追いやられたり、虐げられたりしているんじゃないだろうか。それはまさに単純な弱肉強食の世界だ。

今の社会はきっとそうやって成り立ってきているし、私はそれはとても健全な事だと考えている。

その上で、誰もが幸せになれればいいのに、と本気で思っている。

さらに言うと、誰もが自分の幸せに向かって突き進んでいかないと、誰もが幸せになれるような社会にはならないと思う。

世の為人の為に身を粉にして必死に働くというのが美徳と言われる時代ももしかしたらあったのかもしれないけれど、その考え方は害悪であると感じる。

たしかに、人の為になにかしている、世の中のためになにかをしているという貢献感は自分を満たしてくれるし、ひとつの幸せの在り方であると思う。

しかしそれはあくまでひとつの手段であって、「美徳」という形で人に強制させるのは間違っているだろう。

そういうやり方をすると、誰もが幸せになれる社会から遠ざかってしまうだろう。

 

それぞれの人が自分の幸せとはなんなのか、というのを考えることが重要なのかもしれない。

でも、もしかしたら重要じゃないのかもしれない。

決して確固たる答えのある問いではない。

私にとっての幸せとはなんなのだろうか、とまじめに考えてみても、よくわからない。

例えば一週間働きづめで疲れ切った週の土日、ベッドでごろごろしながら漫画や本を読んでいるととても幸せだ、と感じるだろう。

でもそれが二日以上続くと、すごく気分が落ち込んでくる。

例えば友人と旅行へ行き、いろんな場所へ行ったり、美味しいものを食べ、お酒を飲み、遊びまわっているとする。

すごく楽しくて、幸せだ、と感じるだろう。

それが長期間続くと、だんだんと疲れが溜まってきて、家で1人ごろごろと漫画や本を読みたくなってくるだろう。

1人になりたい、と思いはじめるだろう。

例えば1人で暮らして、十分な蓄えもあって、衣食にも困らず、悠々自適に暮らしているとする。

いつか、誰かと暮らしたい、誰かとつながっていたい、家族が欲しいと思いはじめるだろう。

幸せがどんなものなのか、なんてことはよくわからないけれど、同じ状態がずっと続くと人はいつか満たされなくなるのではないだろうか。

幸せとは刹那的でかつ相対的なものなのかもしれない。

 

最近の傾向として、世の中ではどんどんと様々な生き方が許容されるようになってきていると感じる。

10年前と今とでは、世の中に浸透している価値観は大きく変わってきていると思う。

そして、10年後には遊んで暮らせる時代が来ると、本気で言う人が現れてきている。

仮にそうなったとすると、人はどんな時に幸せを感じるようになるのだろうか。

きっと、今とは全く違う価値観が浸透した世の中になるのだろう。

遊んで暮らす、というのにも色んな捉え方はあるけれど、私は、人が責任を持つべき事が無くなるというふうに捉えている。

責任が無いということはつまり、肩書きが無いということではないだろうか。

だから、誰もが遊んで暮らせるようになると、他人から自分を守っている肩書きや権力のようなものが力を失っていき、人は丸裸のまま人と対面しなければならないようになっていくのではないだろうか。

そうなったら、人は人を今よりも露骨に、自分勝手な物差しにかけていくことになるように思う。

その物差しの基準が今よりも露骨に世の中に認知されはじめることで、なぜ人は自分と他人を比べるのかという疑問が多くの人の中に生まれるかもしれない。

幸せが刹那的でかつ相対的なものであるとするならば、多くの人がそういった疑問を持つことが、誰もが幸せになる社会を目指す上で大きな意味をもつのではないだろうか。

人と人を比べると、そこに優劣ができ、優越感を感じる人と劣等感を感じる人が生まれる。

優越感を感じる人はいい思いが出来、劣等感を感じる人はあまりいい気分ではない。

自分のことだけを考えていると、優越感を感じる人は、少しいい気分になっただけで、それ以上深くは考えない。

劣等感を感じた人こそが、疑問をもつことになるだろう。

だから、世の中の大半の人が似たような基準の物差しをもっていた場合、その時の弱者とされる人々のみがそういう事を考えることになる。

それはつまり、どんなに人と人を比べることに対する疑問を世の中にぶつけたとしても、負け組のただの戯れ言として見て見ぬ振りをされやすいということだ。

一方、多様な基準でそれぞれの人が自分勝手な物差しで人の優劣をつける世の中になれば、弱者と強者の間の線引きがだんだん薄れていくことになるだろう。

そうすると、はじめて誰もが平等な立場で人と人を比べることの意味について議論できるのかもしれない。

 

想像に想像を重ねてつらつらと書き下してみたが、これ以上想像していてもキリがなく、なんの結論も出ないだろう。

なぜ幸せの話になったのか、世の中の話になったのかすらもよく覚えていない。

だんだん頭がぼーっとしてきたので、なんのメッセージ性も無いがここで一旦筆を止めようと思う。

とりとめのない思考を羅列しただけの記事ではあるけれど、また時間が経った後読み返して、何か面白いことを思いつくといいな、と思う。

常に頭がぐちゃぐちゃ状態

突然、本当に突然仕事が忙しくなった。

 

もともとの処理能力の低さもあいまり、ほどよい負荷状態でほどよい刺激を受けつつ過ごしてきた6月以前から一変し、山ほど降ってくる情報や仕事と複雑に変化する周りの状況に振り回され、常に頭がぐちゃぐちゃ状態のまま気がつけば二ヶ月が過ぎていた。

パフォーマンスもガタ落ちし、常に浮き足立った状態でふわふわと仕事場を漂っているような気がしている。

もともとプライドが高い方なので、そんな自分の状態にはとても嫌気がさしている。

救いなのは、上司や同僚たちが逐一大丈夫か?と声をかけてくれることだ。

いろいろ嫌なところもない事はないけれど、人間関係的には恵まれていると思っている。

 

ふとこうしてブログを書こうと思ったのは、もう頭の中がどうしようもなく散らかり放題で我慢ならなくなり、とにかく頭に浮かんだ事を書き散らしてしまおうと思ったからだ。

文章とはそもそも頭の整理がある程度ついてから初めて書けるようになるものだと最近思うけれど、今回は混沌とした状態のまま無理やり文章に落とし込むとはたしてどんなものが出来上がるのか興味があるという実験的な意味も少しある。

 

とは言ったものの、いざ書こうと思うと何を書けばいいのか全くわからなくなる。

とりあえず今日の一日のことを書いてみる。

延滞していたdvdを返しに行き、帰りがけに近所のそこそこ美味しいうどん屋さんでざるうどんを食べた。お昼ご飯だ。

清々しいくらいの快晴で、嫌になるくらい暑い日だったから、冷たい麺が喉を通り、体温を冷やしてくれるのがたまらなく快感だった。

なんでざるうどんを選んだかと言うと、昨日職場の先輩と別のうどん屋さんに食べに行った時、先輩が食べていたざるうどんが異常に美味しそうだったからだ。

昨日の先輩のざるうどんと比べるとちょっと細麺だったけれど、量は並とは思えないくらい多かった気がする。

やや二日酔い気味で優しさを求めていた胃には少し辛い量だったけれど、美味しかったので無事に平らげた。

うどんを食べた後は、このまま家に帰ろうか、せっかくだしどこか買い物にいくか、ゆっくり本を読めるようなところにいくか、いろいろ悩みながらとりあえず車を走らせていた。

くるりの曲をランダム再生しながら、快晴の中車を走らせているのがとても心地よかった。

そのうち全部どうでもよくなって、昨日見始めた最高の離婚というドラマの続きが見たくなって、ローソンで甘いものと無糖のカフェオレを買い、家に帰ってからだらだらとドラマを見ていた。

カルテットで初めて好きになり、anoneもとても良かったので興味をもったのたけれど、やっぱり坂元裕二のドラマは好きだ。

そんな感じで、そこそこ休日を満喫した。

とにかく何も考えない時間、何も動かない時間を設けないと、もう脳味噌のキャパオーバーだ。

一回リフレッシュしないと、もう頭がもちそうにない。

本当は一週間くらいずっとじっとしていたいくらいだけれど、社会はタフで活発で、常に一定の水準のパフォーマンスを保てる人々で成り立っているから、それは非常識な行為となってしまう。

誰が決めたわけでもない常識なんて曖昧なものに振り回されるのはしょうもないことだと思わないことも無いけれど、この信用がものをいう世の中で出来る限り気ままに生きようと思うと、最も足枷になるものは不本意なレッテルを貼られる事だと思っているから、しょうがなく毎日まじめに職場へ向かっている。

気ままに生きるために常識に縛られているなんて、我ながら矛盾しているなと思う。

そもそも、そのレッテルを貼られた職場から離れればまた真っさらな状態になれるのに、結局いまの職場に依存している証拠なのかもしれない。

 

いまの職場で将来何がしたいのか?と、先輩から問われる事がある。

そんなこと聞かれても困る、と思う。

言ってしまえばいまの職場の将来に興味は無いし、興味があるのはどれだけ自分がのびのび生きられるかということ、それだけだ。

その先輩は、入社する時から将来のビジョンが決まっていたらしい。そして、将来のビジョンが定まってないなんていうのはダメなことだ、もっと先の事を考えて仕事に臨むべきだ、という事を仰っている。

そんなことを飲み会の場で聞きながら、どこかで聞いたことのあるような言葉の羅列みたい、啓発本を開けばどの本にも書いてありそう、というような事を感じていた。

将来のビジョンが定まっており、それを踏まえてうちの職場ではこういうことをやって、こういうポジションについて、いつかこんなことをしてみたいです。

それは誰が聞いても、それは素晴らしいことだね、と言われるような事だと思うし、実際にそうだと思う。

ただ、そういうビジョンを持つことを人に押し付け、開示することを求めることには、なにか違和感があるように思えてならない。

将来のビジョンを持って、それを共有するということは、そのビジョンをもつ本人というよりもその人が属する組織にとって都合がいいことなんじゃないだろうか。

そういう情報があったほうが組織としてはその人のことを扱いやすくなるはずだ。

そんなことは周知の事実なのかもしれない。

でも、私は組織の一員である一方で、組織に管理されることがとにかく嫌いだと感じてしまっている節がある。

だからこそ、ビジョンを持たなければならない、と説教を受けるときに違和感を覚えてしまうのかもしれない。

 

もしかしたら誰でも組織に管理されるという事は嫌なことなのかもしれない。

仮にそうだとして、その中身を大きく二つに分けると次のようになる。

①管理されていることに気がついていない人

②管理されていることに気がついている人

そして、説教をしてくる先輩が①なのか②なのかで、見方が大きく変わってくる。

①のタイプだとすると、おそらく彼のいう事は受け流してしまえば良い。妄信的に「正しい事」を体現する自分に酔っているだけの可能性が高い。

②のタイプだとすると、その先輩の言うことをもっとよく深掘りして聞いてみたほうがいいかもしれない。

組織の一員としてうまく立ち回りつつ、自分の思うように物事を進めていける、そういう人なのかもしれない。

組織によって社会が成り立っている以上、この社会で気ままにのびのびやっていくためには、そういうやり方がもっとも賢いことなのかもしれない。

 

話の流れがよくわからない方向に行ってしまった。

前半の1日の話しを書いているときはなにも考えず心地よさすら感じていた反面、後半の職場とかビジョンとかの話になるとぐるぐると頭を回転させてしまいすごく疲れてしまった。

今回のこの記事はなんの整理もつかないいまの頭の中でどんな流れで思考が流れていったのか、ほとんどそのままが記されている。

 

文章を書くということは、頭の中がぼやぼやと拡散している中で、なにかひとつのことに焦点を当てることで始めて行うことができる事が分かった。

そしてそれは、思考をするということそのままであると感じた。

拡散して漠然とした状態だと、考えているようでなにも考えていないようなことなのだと思う。

なにかひとつのことに焦点をあて、それをとっかかりにして次へ次へと流れていくのが思考なのかもしれない。

そしてあるきっかけで簡単に違う話にそれていってしまう。

一歩間違えるだけでそのうち全く違う場所に辿り着いてしまう。

違うことを同時に思考する、ということは、少なくとも私には難しいようだ。

一本道のようなイメージを感じた。

一本の川が途中で分岐し、結果的に全く違う場所から海へ流れ出るようなものである気がした。

 

ぼーっとしているときに活発に働いている脳の部位があるらしい。

もしかしたらその脳の部位は、自分の頭の中を、今まで通ってきた思考の跡を俯瞰する役割を持っているのかもしれない。

一方、なにかに集中している時はその脳の部位は、ぼーっとしている時と比べると活動は収まるらしい。

これは、脳味噌というのは、ひとつのことに焦点を当て、思考を次へ次へと流す事で思考の範囲を広げ、ぼーっと拡散することで自分の思考の跡を俯瞰し、整理したり、間違った方向に行っていないかチェックする、という流れで活動をしていることを示唆しているのかもしれない。

 

これは、なんの専門知識ももっていない私の突拍子も無い戯言だ。

ただのイメージの話をしている。

しかし、正しいか正しくないかはさておき、新たな見方を得られたような気がする。

 

こういうなんの整理もされていない文章は、人に読ませるととても読みづらく、不快さすら感じさせるかもしれない。

あくまでこれは自分のための記事であるということになる。

ほんとうにぐちゃぐちゃした記事になっていると我ながら感じるが、少し時間が経ってから読み返すのが楽しみでもある。

 

ほんとうに疲れてきたので、今回はこのへんで終わろうと思う。

次に読むときの自分自身により、さらに考えが洗練されていくといいなあ、と思う。

深刻なバイタリティ不足(GW総括)

4/28から5/6すなわち今日まで、9連休だった。

いわゆるゴールデンウィークだ。

 

根っからインドアな質なので去年の9連休の半分以上は家に引きこもっていたのだが、今年はなんの巡り合わせか、旅行や演奏や友人との飲み等の予定がどんどん入り、気がつけば一日もフリーな日がなくなってしまっていた。

 

その怒涛の9連休を終えた結論から言うと、とにかく疲れた。明日から仕事なんて考えられない。もう無理・・・。

なんなら普通の勤務日なんかよりもハードだった気がする・・・。

世の中には休みを充実させるためにとにかく予定を詰め込みまくるバリバリな人もいるが、私はそんなふうにはなれそうにない事がよく分かった。知っていたけれど。

仕事も遊びも全力で、とはよく言うけれど、全力で休む事も忘れないようにしないと、私のようなバイタリティに欠ける人間はすぐにダウンしてしまいそうだ。

なんの予定もないフリーな1日は必須だ。これからは少なくとも1日だけでも確保するようにしよう。できれば最終日に。

 

といった感じで体力的に後悔のほうがやや強めではあるが、旅先等で撮った写真やお土産品、飲み残した飲み物、清算用に残しておいたレシートなんかを眺めていると、ああ、なんだかんだ結構楽しかったなあと思えるから不思議だ。

家で引きこもって本を読んだり、一人でふらっと出かけたりするのも好きだが、それだけでは味わえない充実感のようなものはたしかにあるなあと思う。

いろんな予定ごとは、帰ってきてから過程を振り返る時間がいちばん安心できるし楽しいかもしれない。

世の予定を詰め込むバイタリティ溢れる方々も、求めているものはもしかしたらこういう時間なのかなあ、とか想像してみたり。

 

三重の青山高原はとても綺麗だった。

風景が気に入ったので、トップページの画像にした。

風車から時折ガガガガガっと音がして恐ろしかった。

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愛媛の道後温泉はとても雰囲気があってよかった。

湯上りには個室の休憩所を利用した。

浴衣を着て畳の上の座布団で寛ぎながら外から入ってくる涼しい風を浴びていると、なんだか昔の日本にタイムスリップしたような気分になった。

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夜も雰囲気があってよかった。

飲み歩きもすごく充実した。

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他にも、大学時代の友人が田舎で経営している古民家カフェに遊びに行ったり、香川で新しくお気に入りのうどん屋さんを見つけたり(中西うどんの太麺のもちもち感に感動した)、偶然高校時代の同級生と遭遇してそのままいっしょに飲みに行ったり、金刀比羅山に参拝して未だに筋肉痛だったり、大学時代の仲間たちとライブしたりと、本当にいろんな事があった。

終始よく食べ、よく飲んでいた。

もう胃と肝臓が限界だ・・・。

 

やっぱりこうして振り返ってみるとだんだんと充実感が湧いてくる。

一人ではこんな休みの過ごし方はできなかっただろう。

こんなインドアな私を外に連れ出してくれた友人達に感謝。

あとは、残り少ないGWを全力で休んで明日からの仕事に備えるだけだ。

今朝起きてからずっと喉が痛いのはきっと気のせいだと思いたい・・・。

本当は音楽が好き

音楽が好きだ。

 

良く聴くのは、日本のポップスやポストロックなど、だと思う。

なんで"だと思う"かというと、正直音楽のジャンル分けについて正しく理解できていないのでよく分からないからだ。

自分の弱い部分を曝け出しているもの、とにかくエネルギーをぶつけているもの、徒然に思いを歌にのせているもの、なんとなく退廃的で情緒的な感じのするインスト、など、そんな音楽に惹かれる気がする。

押し付けがましくなく、ただ溢れて来た思いが音楽として昇華されようとしている様子が、美しいな、と思う。

ちなみに、上で述べた雰囲気のものは例えばこんな曲たちだ。


①自分の弱い部分を曝け出しているもの
我に返るスキマを埋めろ/TOMOVSKY
https://youtu.be/SZUDd5eKjX0
トモフスキーは歌詞がとにかく後ろ向き。後ろ向きな気持ちを全く飾らない言葉でストレートに表現しているのに、なぜか元気がもらえる不思議な人。

②とにかくエネルギーをぶつけているもの
FOLLOW ME/andymori
https://youtu.be/OzZse5m2ycM
エネルギーが有り余っている、というかんじ。今よりもちょっと若い頃の小山田壮平の世界観と声とこの曲調がマッチして、激しいのにちょっと懐かしい、どこか切ない、そんな曲。

③徒然に思いを歌にのせているもの-1
one more dance/yukaD
https://youtu.be/efrCc-SxSk8
他愛もない歌詞なのに飾り気のない気だるい感じが癖になる。ずっと聴いていたくなるセンス抜群な歌を歌う人。ここにはのせないけれどyukaDがボーカルをしていたostooandellというバンドもとても好き。

④徒然に思いを歌にのせているもの-2
Tunnel Light/predawn
https://youtu.be/J9sI4a8MPo0
すごく優しい歌を歌う人。写真と曲の雰囲気が絶妙。歌詞は正直英語でなに言ってるかあまり分からない。けれど大好き。最近ずっと聴いてる。

⑤なんとなく退廃的で情緒的な感じのするインスト
I dance alone/toe
https://youtu.be/xvc1qc8eOQg
あんまり言葉で説明できない気もする。そのまんま、退廃的で情緒的な感じのする曲。聴いていると切ないような悲しいような、厭世的な気持ちになる曲

 

今挙げたのは普段の自分の精神状態だとだいたいそんな感じのものに魅力を感じる、という類のもので、全然当てはまらない雰囲気のものでもその時々の気分によって、あ、いいな、と思ったらその時点でもう好きな曲になったりする。

その曲との出会い方というのもきっととても重要だ。

 

日常会話の中で音楽の話になった時、どんなのが好きなの?と聞かれてもいつも返答に困ってしまう。

どんなの、ってなにを指してどんなのと言っているのか分からない。

分からないけれど、おそらくこの質問をしてくる人の意図としては、会話の流れとして形式的に聞いてみただけであるか、相手の音楽の趣味を自分の知識の範囲内で端的に理解したいかのどちらかなのだと思う。

前者の場合、とくに相手に興味があるわけでもないから、んー、優しい音楽が好き、スピッツとか、なんて簡単に言ってしまえば納得してくれる。相手もすぐ忘れるだろうし、ほんとにスピッツは好きだし、自然な流れで会話を続けることができる。

後者の場合は相手が興味を持ってくれている分、ほんとうにちゃんと説明しなければならない。

説明する切り口はいくつかある。

ぱっと思いつくのはジャンル、楽器の編成、流行りの曲、そして具体的なグループ名だ。

まず、ジャンルに関しては冒頭で述べたようによくわからないから却下だ。自分の意図とは違うものが相手に伝わってしまう可能性の方が高い。そうなると会話が食い違ってしまってその場が気持ち悪くなってしまう。

次に楽器の編成だが、私はバンド編成のものを比較的よく聴くけれど特にそこにこだわりは無い。バンド編成のものをよく聴く、と言ってしまってもいいけれど、範囲が広すぎて質問に答えているようでまったく答えられてないからやはり却下だ。

次は流行りの曲だ。これはまず私が流行りの曲を知っている前提となるが、そもそも私は流行りの曲自体知らないことの方が多い。流行りの曲を知っていたとしても、最近はイケイケな精神状態を更に鼓舞する為にあるようなイケイケな曲が流行る傾向にある気がするので、押し付けがましい曲が苦手な私にとって流行りの曲が好きだと思える事はほぼ無いに等しい。だからこれも却下となる。

最後に残されたのは具体的なグループ名しかない。だが、やはりこれにも問題がある。それは、好きな人達がたくさんいて代表的な一つに絞り込むことが出来ないことだ。この人達が好き!というような熱狂的なグループが一つあればそれを伝えるだけでいいんだろうけど、私は広く浅くいろんなものがなんとなく好きなんだと思うのでいまいちピンとくるグループがいない。

その中から咄嗟に相手の音楽知識を判断して、相手に分かるようなグループ名でかつ自分の好みをある程度把握してもらえるようなものを挙げるというのは、私にとっては物凄く難しいし、考えるのも結構しんどい。

しかしなにも答えない訳にもいかないので、音楽にちょっと詳しそうな人ならandymoriが好き、と言ったり、andymoriが分かりそうになかったらくるりが好き、それも分からなそうならやはりスピッツが好き、と言ったりする。

でも、それだけで私の音楽の好みを説明しきれるとは思えないから、勝手にもやもやしてしまう。

でもそのもやもやを相手に伝えてしまうのも不本意なので、一旦口にしてしまった以上、その人の前ではandymoriが好きな人、くるりが好きな人、スピッツが好きな人として振舞うことにしている。まあほんとうに大好きだからいいのだけれど、でもなあ、気分で変わるしなあ、と、面倒くさいことを考えてしまう。私はきっと口下手なわりに細かいことを気にしてしまう面倒くさい性格なんだろう。

 

こんなふうに音楽の話になるとかなり体力を使ってしまってしんどいので、最近は音楽が好きだ、とはあまり言わないようにしている。

え、音楽好きなの?くらいに言われる方が心地よいと思う。

これは、ひねくれた考え方だろうか。

 

ところで、不思議なもので、どんなのが好きなの?と聞かれると困ってしまう一方で、似てるけれど、最近なにかいいのない?とか、最近なにが好きなの?とか、最近、が付くと途端に聞かれて嬉しくなってしまう。
これは、最近、という部分から、私への親しみとか、音楽への愛情みたいなものが伝わってくるからなのかもしれない。
それに、最近好きなわけであって、ずっと好きでいたわけではない前提で話せるというのも大きいと思う。
単純だけれど、こんな風に聞いてくださる人がいれば即自分のプレイリストを広げて、こんなのとか、こんなのとかが最近すごく好きなんですよー、といろいろ紹介させてもらうことになるだろう。
こんなふうだけど、こんなふうだから、やっぱり私は音楽が好きなのだと思う。

人に親切になりたい

今日、というかついさっきの事。

23時ごろターミナルでバスを待っていると、おばあさんがやってきて、このバスはどちら方面にいきますか、と声をかけられた。

これは××方面行きですよ、と答えると、おばあさんはありがとう、と言ってまた歩いて行った。

 

それ以上私はとくに深く考えず、寒いなぁ、バスはやく来ないかなぁ、と再び時計に目を向けた。

すると、その場に居た友人が一言、あのおばあさんどちらに行かれるんだろう、と呟いた。

その言葉につられて、たしかにどこに行くんだろうな、こんな時間に1人で歩いてなにしてるんだろうな、危ないな、足元もおぼつかないし心配になるな、といったことがぼんやりと頭に浮かんできた。

 

そこで、私ははっと気づいた。

自分はあの足元のおぼつかない小柄なおばあさんに、こんな時間にたった1人でバス停探しをさせてしまっている。

そして、急に後悔の波が押し寄せて来た。

最初にバスの行き先を聞かれた時、そのまま答えを返すだけでなく、行きたい方面を聞いてバス停まで案内してあげることもできたはずだ。

なんでそういう気の利いたことができなかったんだろう、と。

 

でも、なんでとは言いつつ、理由ははっきりしていた。

ただ、周りのことに興味が無かったからだ。

頭の中は、ちょっと寒いな、早く帰りたい、バス早く来て欲しい、脚が疲れた、といった自分の事だけでいっぱいだった。

興味は全て、一刻も早く寒さから逃れ、座った状態で家に身体を運んでもらうことのみに注がれていた。

だから、おばあさんが23時に1人で歩いていることに疑問を持たなかったし、行き先だってとくに知りたいとも思わなかった。

なんなら、友人の一言が無ければこうやって思いを馳せ、後悔することすらなかっただろう。

話しかけて来たおばあさんの存在すら忘れてしまっていたはずだ。

 

こんな自分のことでいっぱいいっぱいの私と、おばあさんの行き先を気にかけられた友人との差が、親切か親切でないか、もしくは気の利く人か気の利かない人かの境目であるように私には思えた。

周りへの興味を持つことができなければ、親切な行いは生まれない事に、今日、ようやく気づいたのだ。

 

自分のことでいっぱいいっぱいになっている時でも、きりのいいタイミングでいいから一度深呼吸し、ほんの少しだけでも周りへ興味を向ける瞬間を持つようにしたいと、そう思った出来事だった。

思っただけではきっとすぐに忘れてしまうだろうということで、せめてそう思い至った経緯を含めて記録しておこうと考え、こうしてブログという形で残すことにした。

 

ちなみにその後は友人と一緒におばあさんが所望するバス停に案内したが、終電が過ぎてしまっていた為、タクシー乗り場までご案内し、そこでおばあさんをお見送りした。

聞くとおばあさんは88歳というご高齢で、心臓や眼を悪くされて手術を繰り返しておられるらしかった。しかも、一人暮らしされていて、唯一の身内の娘は遠くに嫁がれ、全く当てにしていないとのこと。

タクシーに乗るのさえ、やっとだった。

独居老人問題の切実さを初めて目の当たりにし、また別の意味で心を痛めてしまった。

タクシーまで案内しただけで、これはただの自己満足に過ぎないのかもしれないが、それでも、本当にあのまま放っておくことにならなくて良かったと、心から思った。

尊敬すべき偉大な友人に感謝。

 

常に周りに気を配るなんてたいそうなことは私には向かないが、それでも本当に困っている人に気がつき、ほんの少しだけでもいいから手助けができる人でありたいと感じた。