雑記帳

もう駄目だと思った時の、最後の拠り所です。

人に親切になりたい

今日、というかついさっきの事。

23時ごろターミナルでバスを待っていると、おばあさんがやってきて、このバスはどちら方面にいきますか、と声をかけられた。

これは××方面行きですよ、と答えると、おばあさんはありがとう、と言ってまた歩いて行った。

 

それ以上私はとくに深く考えず、寒いなぁ、バスはやく来ないかなぁ、と再び時計に目を向けた。

すると、その場に居た友人が一言、あのおばあさんどちらに行かれるんだろう、と呟いた。

その言葉につられて、たしかにどこに行くんだろうな、こんな時間に1人で歩いてなにしてるんだろうな、危ないな、足元もおぼつかないし心配になるな、といったことがぼんやりと頭に浮かんできた。

 

そこで、私ははっと気づいた。

自分はあの足元のおぼつかない小柄なおばあさんに、こんな時間にたった1人でバス停探しをさせてしまっている。

そして、急に後悔の波が押し寄せて来た。

最初にバスの行き先を聞かれた時、そのまま答えを返すだけでなく、行きたい方面を聞いてバス停まで案内してあげることもできたはずだ。

なんでそういう気の利いたことができなかったんだろう、と。

 

でも、なんでとは言いつつ、理由ははっきりしていた。

ただ、周りのことに興味が無かったからだ。

頭の中は、ちょっと寒いな、早く帰りたい、バス早く来て欲しい、脚が疲れた、といった自分の事だけでいっぱいだった。

興味は全て、一刻も早く寒さから逃れ、座った状態で家に身体を運んでもらうことのみに注がれていた。

だから、おばあさんが23時に1人で歩いていることに疑問を持たなかったし、行き先だってとくに知りたいとも思わなかった。

なんなら、友人の一言が無ければこうやって思いを馳せ、後悔することすらなかっただろう。

話しかけて来たおばあさんの存在すら忘れてしまっていたはずだ。

 

こんな自分のことでいっぱいいっぱいの私と、おばあさんの行き先を気にかけられた友人との差が、親切か親切でないか、もしくは気の利く人か気の利かない人かの境目であるように私には思えた。

周りへの興味を持つことができなければ、親切な行いは生まれない事に、今日、ようやく気づいたのだ。

 

自分のことでいっぱいいっぱいになっている時でも、きりのいいタイミングでいいから一度深呼吸し、ほんの少しだけでも周りへ興味を向ける瞬間を持つようにしたいと、そう思った出来事だった。

思っただけではきっとすぐに忘れてしまうだろうということで、せめてそう思い至った経緯を含めて記録しておこうと考え、こうしてブログという形で残すことにした。

 

ちなみにその後は友人と一緒におばあさんが所望するバス停に案内したが、終電が過ぎてしまっていた為、タクシー乗り場までご案内し、そこでおばあさんをお見送りした。

聞くとおばあさんは88歳というご高齢で、心臓や眼を悪くされて手術を繰り返しておられるらしかった。しかも、一人暮らしされていて、唯一の身内の娘は遠くに嫁がれ、全く当てにしていないとのこと。

タクシーに乗るのさえ、やっとだった。

独居老人問題の切実さを初めて目の当たりにし、また別の意味で心を痛めてしまった。

タクシーまで案内しただけで、これはただの自己満足に過ぎないのかもしれないが、それでも、本当にあのまま放っておくことにならなくて良かったと、心から思った。

尊敬すべき偉大な友人に感謝。

 

常に周りに気を配るなんてたいそうなことは私には向かないが、それでも本当に困っている人に気がつき、ほんの少しだけでもいいから手助けができる人でありたいと感じた。