雑記帳

もう駄目だと思った時の、最後の拠り所です。

常に頭がぐちゃぐちゃ状態

突然、本当に突然仕事が忙しくなった。

 

もともとの処理能力の低さもあいまり、ほどよい負荷状態でほどよい刺激を受けつつ過ごしてきた6月以前から一変し、山ほど降ってくる情報や仕事と複雑に変化する周りの状況に振り回され、常に頭がぐちゃぐちゃ状態のまま気がつけば二ヶ月が過ぎていた。

パフォーマンスもガタ落ちし、常に浮き足立った状態でふわふわと仕事場を漂っているような気がしている。

もともとプライドが高い方なので、そんな自分の状態にはとても嫌気がさしている。

救いなのは、上司や同僚たちが逐一大丈夫か?と声をかけてくれることだ。

いろいろ嫌なところもない事はないけれど、人間関係的には恵まれていると思っている。

 

ふとこうしてブログを書こうと思ったのは、もう頭の中がどうしようもなく散らかり放題で我慢ならなくなり、とにかく頭に浮かんだ事を書き散らしてしまおうと思ったからだ。

文章とはそもそも頭の整理がある程度ついてから初めて書けるようになるものだと最近思うけれど、今回は混沌とした状態のまま無理やり文章に落とし込むとはたしてどんなものが出来上がるのか興味があるという実験的な意味も少しある。

 

とは言ったものの、いざ書こうと思うと何を書けばいいのか全くわからなくなる。

とりあえず今日の一日のことを書いてみる。

延滞していたdvdを返しに行き、帰りがけに近所のそこそこ美味しいうどん屋さんでざるうどんを食べた。お昼ご飯だ。

清々しいくらいの快晴で、嫌になるくらい暑い日だったから、冷たい麺が喉を通り、体温を冷やしてくれるのがたまらなく快感だった。

なんでざるうどんを選んだかと言うと、昨日職場の先輩と別のうどん屋さんに食べに行った時、先輩が食べていたざるうどんが異常に美味しそうだったからだ。

昨日の先輩のざるうどんと比べるとちょっと細麺だったけれど、量は並とは思えないくらい多かった気がする。

やや二日酔い気味で優しさを求めていた胃には少し辛い量だったけれど、美味しかったので無事に平らげた。

うどんを食べた後は、このまま家に帰ろうか、せっかくだしどこか買い物にいくか、ゆっくり本を読めるようなところにいくか、いろいろ悩みながらとりあえず車を走らせていた。

くるりの曲をランダム再生しながら、快晴の中車を走らせているのがとても心地よかった。

そのうち全部どうでもよくなって、昨日見始めた最高の離婚というドラマの続きが見たくなって、ローソンで甘いものと無糖のカフェオレを買い、家に帰ってからだらだらとドラマを見ていた。

カルテットで初めて好きになり、anoneもとても良かったので興味をもったのたけれど、やっぱり坂元裕二のドラマは好きだ。

そんな感じで、そこそこ休日を満喫した。

とにかく何も考えない時間、何も動かない時間を設けないと、もう脳味噌のキャパオーバーだ。

一回リフレッシュしないと、もう頭がもちそうにない。

本当は一週間くらいずっとじっとしていたいくらいだけれど、社会はタフで活発で、常に一定の水準のパフォーマンスを保てる人々で成り立っているから、それは非常識な行為となってしまう。

誰が決めたわけでもない常識なんて曖昧なものに振り回されるのはしょうもないことだと思わないことも無いけれど、この信用がものをいう世の中で出来る限り気ままに生きようと思うと、最も足枷になるものは不本意なレッテルを貼られる事だと思っているから、しょうがなく毎日まじめに職場へ向かっている。

気ままに生きるために常識に縛られているなんて、我ながら矛盾しているなと思う。

そもそも、そのレッテルを貼られた職場から離れればまた真っさらな状態になれるのに、結局いまの職場に依存している証拠なのかもしれない。

 

いまの職場で将来何がしたいのか?と、先輩から問われる事がある。

そんなこと聞かれても困る、と思う。

言ってしまえばいまの職場の将来に興味は無いし、興味があるのはどれだけ自分がのびのび生きられるかということ、それだけだ。

その先輩は、入社する時から将来のビジョンが決まっていたらしい。そして、将来のビジョンが定まってないなんていうのはダメなことだ、もっと先の事を考えて仕事に臨むべきだ、という事を仰っている。

そんなことを飲み会の場で聞きながら、どこかで聞いたことのあるような言葉の羅列みたい、啓発本を開けばどの本にも書いてありそう、というような事を感じていた。

将来のビジョンが定まっており、それを踏まえてうちの職場ではこういうことをやって、こういうポジションについて、いつかこんなことをしてみたいです。

それは誰が聞いても、それは素晴らしいことだね、と言われるような事だと思うし、実際にそうだと思う。

ただ、そういうビジョンを持つことを人に押し付け、開示することを求めることには、なにか違和感があるように思えてならない。

将来のビジョンを持って、それを共有するということは、そのビジョンをもつ本人というよりもその人が属する組織にとって都合がいいことなんじゃないだろうか。

そういう情報があったほうが組織としてはその人のことを扱いやすくなるはずだ。

そんなことは周知の事実なのかもしれない。

でも、私は組織の一員である一方で、組織に管理されることがとにかく嫌いだと感じてしまっている節がある。

だからこそ、ビジョンを持たなければならない、と説教を受けるときに違和感を覚えてしまうのかもしれない。

 

もしかしたら誰でも組織に管理されるという事は嫌なことなのかもしれない。

仮にそうだとして、その中身を大きく二つに分けると次のようになる。

①管理されていることに気がついていない人

②管理されていることに気がついている人

そして、説教をしてくる先輩が①なのか②なのかで、見方が大きく変わってくる。

①のタイプだとすると、おそらく彼のいう事は受け流してしまえば良い。妄信的に「正しい事」を体現する自分に酔っているだけの可能性が高い。

②のタイプだとすると、その先輩の言うことをもっとよく深掘りして聞いてみたほうがいいかもしれない。

組織の一員としてうまく立ち回りつつ、自分の思うように物事を進めていける、そういう人なのかもしれない。

組織によって社会が成り立っている以上、この社会で気ままにのびのびやっていくためには、そういうやり方がもっとも賢いことなのかもしれない。

 

話の流れがよくわからない方向に行ってしまった。

前半の1日の話しを書いているときはなにも考えず心地よさすら感じていた反面、後半の職場とかビジョンとかの話になるとぐるぐると頭を回転させてしまいすごく疲れてしまった。

今回のこの記事はなんの整理もつかないいまの頭の中でどんな流れで思考が流れていったのか、ほとんどそのままが記されている。

 

文章を書くということは、頭の中がぼやぼやと拡散している中で、なにかひとつのことに焦点を当てることで始めて行うことができる事が分かった。

そしてそれは、思考をするということそのままであると感じた。

拡散して漠然とした状態だと、考えているようでなにも考えていないようなことなのだと思う。

なにかひとつのことに焦点をあて、それをとっかかりにして次へ次へと流れていくのが思考なのかもしれない。

そしてあるきっかけで簡単に違う話にそれていってしまう。

一歩間違えるだけでそのうち全く違う場所に辿り着いてしまう。

違うことを同時に思考する、ということは、少なくとも私には難しいようだ。

一本道のようなイメージを感じた。

一本の川が途中で分岐し、結果的に全く違う場所から海へ流れ出るようなものである気がした。

 

ぼーっとしているときに活発に働いている脳の部位があるらしい。

もしかしたらその脳の部位は、自分の頭の中を、今まで通ってきた思考の跡を俯瞰する役割を持っているのかもしれない。

一方、なにかに集中している時はその脳の部位は、ぼーっとしている時と比べると活動は収まるらしい。

これは、脳味噌というのは、ひとつのことに焦点を当て、思考を次へ次へと流す事で思考の範囲を広げ、ぼーっと拡散することで自分の思考の跡を俯瞰し、整理したり、間違った方向に行っていないかチェックする、という流れで活動をしていることを示唆しているのかもしれない。

 

これは、なんの専門知識ももっていない私の突拍子も無い戯言だ。

ただのイメージの話をしている。

しかし、正しいか正しくないかはさておき、新たな見方を得られたような気がする。

 

こういうなんの整理もされていない文章は、人に読ませるととても読みづらく、不快さすら感じさせるかもしれない。

あくまでこれは自分のための記事であるということになる。

ほんとうにぐちゃぐちゃした記事になっていると我ながら感じるが、少し時間が経ってから読み返すのが楽しみでもある。

 

ほんとうに疲れてきたので、今回はこのへんで終わろうと思う。

次に読むときの自分自身により、さらに考えが洗練されていくといいなあ、と思う。