雑記帳

もう駄目だと思った時の、最後の拠り所です。

自分の事しか考えていない

多分私は自分の事しか考えていない

 

最近、他人に興味がないように思う。

それはほんとうにいろいろな場面からそう感じている。

たとえば、人からラインなどで連絡がきても全く返さないとき。

たとえば、組織内で自分のパフォーマンスが維持できないと途端に興味が無くなる時。

たとえば、自分に直接的に関係する時事問題以外には全く興味が湧かない時。

たとえば、周りが盛り上がっていても自分が疲れてしまったらとにかく早く帰りたくなる時。

そんな自分はどこかおかしいのかもしれないと時々思う。

 

一方で、心のどこかで、人は誰でも根本的には自分の事しか考えていないから、別になにもおかしいことはないんじゃないか、とも思っている。

家入一真という人は、究極の利己は利他になる、ということを言っていた。

それはまさにその通りだと思う。

それを踏まえると、私がとにかくマイペースで人のことに関心がないようになってしまっているのは、何が将来自分の為になって、何が自分の将来の枷になるのかに対する想像力が疎いせいなんだろうな、と思っている。

 

人はそれぞれ幸せになる権利があると思うし、誰もその権利を侵害することは許されないと思うし、ほんとうに誰もが幸せになれればいいのに、と本気で思う。

そして、誰もが自分の幸せだけを考えて、それに向かって突き進むべきだと思う。

そんなことを言うと絶対に、そんな考えは甘い、人はやりたい事だけじゃなく、やりたくない事もやらないといけないんだ、と反論してくる人が必ずいると思う。

でもそんな反論は筋違いなんじゃないだろうか。

まず、やりたくないことをやる事と、その人が幸せかどうかには直接的な関係は無いだろう。

そして、みんなが自分の幸せに向かって突き進んでいる過程こそが今の社会だと私は考えている。

誰だって不幸せにはなりたくないし、やりたくない事をやっている人は、それをやる事で自分の大切なものを守っているはずだ。

大切なものというのは人それぞれで、お金であったり、肩書きであったり、居場所であったり、家族や恋人だったり、自分が幸せであるために必要だと感じるものすべてを指している。 

だからこそ人は毎日行きたくもない会社に行くし、遅くまで残業するし、楽しくもない飲み会にも出席するし、面倒な親戚づきあいもするし、特に親しくもない人の結婚式に高いご祝儀を持って行ったりするんじゃないだろうか。

ただ人は当初の目的をすぐ見失ってしまう生き物だから、自分がなんのためにそんなことをしているのか分からなくなって、なんで自分はこんなに不幸なんだ、こんな社会はおかしい、と言う人も出てくるんだと思う。

たしかに今の社会の構造は複雑で、誰もが幸せになれるようなものではないだろう。

誰もが幸せになる為にはまだまだ乗り越えるべき課題は山積みなんだろうと、社会情勢とか、時事問題に極端に疎い私にでも容易に想像出来る。

でもその成り立ちは案外単純で、誰もが自分の幸せのみを考えて突き進み、結果として力を持っていて、かつ運のいい人が色々なことを成し遂げていき、力が無かったり運の悪かったりした人が、隙間をぬって賢く生きていたり、力を持つ人のおこぼれに預かろうとしたり、隅へ追いやられたり、虐げられたりしているんじゃないだろうか。それはまさに単純な弱肉強食の世界だ。

今の社会はきっとそうやって成り立ってきているし、私はそれはとても健全な事だと考えている。

その上で、誰もが幸せになれればいいのに、と本気で思っている。

さらに言うと、誰もが自分の幸せに向かって突き進んでいかないと、誰もが幸せになれるような社会にはならないと思う。

世の為人の為に身を粉にして必死に働くというのが美徳と言われる時代ももしかしたらあったのかもしれないけれど、その考え方は害悪であると感じる。

たしかに、人の為になにかしている、世の中のためになにかをしているという貢献感は自分を満たしてくれるし、ひとつの幸せの在り方であると思う。

しかしそれはあくまでひとつの手段であって、「美徳」という形で人に強制させるのは間違っているだろう。

そういうやり方をすると、誰もが幸せになれる社会から遠ざかってしまうだろう。

 

それぞれの人が自分の幸せとはなんなのか、というのを考えることが重要なのかもしれない。

でも、もしかしたら重要じゃないのかもしれない。

決して確固たる答えのある問いではない。

私にとっての幸せとはなんなのだろうか、とまじめに考えてみても、よくわからない。

例えば一週間働きづめで疲れ切った週の土日、ベッドでごろごろしながら漫画や本を読んでいるととても幸せだ、と感じるだろう。

でもそれが二日以上続くと、すごく気分が落ち込んでくる。

例えば友人と旅行へ行き、いろんな場所へ行ったり、美味しいものを食べ、お酒を飲み、遊びまわっているとする。

すごく楽しくて、幸せだ、と感じるだろう。

それが長期間続くと、だんだんと疲れが溜まってきて、家で1人ごろごろと漫画や本を読みたくなってくるだろう。

1人になりたい、と思いはじめるだろう。

例えば1人で暮らして、十分な蓄えもあって、衣食にも困らず、悠々自適に暮らしているとする。

いつか、誰かと暮らしたい、誰かとつながっていたい、家族が欲しいと思いはじめるだろう。

幸せがどんなものなのか、なんてことはよくわからないけれど、同じ状態がずっと続くと人はいつか満たされなくなるのではないだろうか。

幸せとは刹那的でかつ相対的なものなのかもしれない。

 

最近の傾向として、世の中ではどんどんと様々な生き方が許容されるようになってきていると感じる。

10年前と今とでは、世の中に浸透している価値観は大きく変わってきていると思う。

そして、10年後には遊んで暮らせる時代が来ると、本気で言う人が現れてきている。

仮にそうなったとすると、人はどんな時に幸せを感じるようになるのだろうか。

きっと、今とは全く違う価値観が浸透した世の中になるのだろう。

遊んで暮らす、というのにも色んな捉え方はあるけれど、私は、人が責任を持つべき事が無くなるというふうに捉えている。

責任が無いということはつまり、肩書きが無いということではないだろうか。

だから、誰もが遊んで暮らせるようになると、他人から自分を守っている肩書きや権力のようなものが力を失っていき、人は丸裸のまま人と対面しなければならないようになっていくのではないだろうか。

そうなったら、人は人を今よりも露骨に、自分勝手な物差しにかけていくことになるように思う。

その物差しの基準が今よりも露骨に世の中に認知されはじめることで、なぜ人は自分と他人を比べるのかという疑問が多くの人の中に生まれるかもしれない。

幸せが刹那的でかつ相対的なものであるとするならば、多くの人がそういった疑問を持つことが、誰もが幸せになる社会を目指す上で大きな意味をもつのではないだろうか。

人と人を比べると、そこに優劣ができ、優越感を感じる人と劣等感を感じる人が生まれる。

優越感を感じる人はいい思いが出来、劣等感を感じる人はあまりいい気分ではない。

自分のことだけを考えていると、優越感を感じる人は、少しいい気分になっただけで、それ以上深くは考えない。

劣等感を感じた人こそが、疑問をもつことになるだろう。

だから、世の中の大半の人が似たような基準の物差しをもっていた場合、その時の弱者とされる人々のみがそういう事を考えることになる。

それはつまり、どんなに人と人を比べることに対する疑問を世の中にぶつけたとしても、負け組のただの戯れ言として見て見ぬ振りをされやすいということだ。

一方、多様な基準でそれぞれの人が自分勝手な物差しで人の優劣をつける世の中になれば、弱者と強者の間の線引きがだんだん薄れていくことになるだろう。

そうすると、はじめて誰もが平等な立場で人と人を比べることの意味について議論できるのかもしれない。

 

想像に想像を重ねてつらつらと書き下してみたが、これ以上想像していてもキリがなく、なんの結論も出ないだろう。

なぜ幸せの話になったのか、世の中の話になったのかすらもよく覚えていない。

だんだん頭がぼーっとしてきたので、なんのメッセージ性も無いがここで一旦筆を止めようと思う。

とりとめのない思考を羅列しただけの記事ではあるけれど、また時間が経った後読み返して、何か面白いことを思いつくといいな、と思う。