雑記帳

もう駄目だと思った時の、最後の拠り所です。

ぐるぐる考えて書き下してみる

社会人になってから、自分はこの先どうなってしまうんだろうか、というような漠然とした不安が大きくなってきている気がする。

さいころ想像していた「大人」のような存在は、少なくとも自分の中には未だ存在せず、26歳ではあるが中身は小さいころからほとんど変わっていないように思う。

それが果たしてみんな同じなのか、それとも自分だけなのかはよく分からない。

ただ、職場の同僚たちや昔からの友人たちとしゃべっていても、特に大きな問題なく社会に溶け込んで生活を行えてはいるが、中身は昔からほとんど変わっていないように思う。

そう考えると、社会の大半はこんな子供みたいな中身を持つ人達で構成されているようであり、そうだとするとよくもまあなんとか成り立っているなあと感じる。

 

それはさておき、現状ではありがたいことに経済的に比較的余裕のある生活を行えており(独り身だからというのもあるとは思うが)、仕事に費やす時間もブラック企業と言うには比較的少なめであるから、こうして自分の時間を持つ事も出来ている。

学生のころからそんなに活発に活動する質ではなかったので、社会に出てから変わったことといえば朝起きるのが早くなった事くらいで、あとは特に不自由なことは感じていない。

定期的に1週間くらいまとまった休みが欲しい!と思うことはよくあるけれど、それはまあ学生の時も似たようなことをよく思っていたので、結局はあまり変化していないのだと思う。

このまま順調にいけば、仕事も少しずつ1人前に近づいていき、そのうち部下を持って充実した会社員生活を続け、(予定はないけれど)いつか結婚をして子供をもうけ、家庭を持ち、というような絵にかいたような筋道を辿って行くのかもしれないなあというように漠然と頭に浮かべる事はある。

もちろんそんな順調に行かず、会社では思うように成果が挙がらずに影の薄い存在になっているかもしれないし、ずっと独り身のままかもしれない。

それは一旦置いておくとして、じゃあ、自分は今の会社でバリバリ出世していき、それで満足できるのか?結婚して家族を持ちたいと本当に思っているのか?と言う問いにはっきりと答えられない自分が居て、自分の中にこれから一生懸命生きていく動機のようなものが欠けているのではないかというような思いにとらわれる事がある。

言い方は極端になってしまうけれど、惰性で生きているような、そんな気分になることがある。

 

最近、Facebookで小中高大のかつての友人たちが今どうしているのか、というのを見て回るということをやってみた。

まあ自分もそうであるように、ほとんどの人が更新停止状態で近況ははっきりとはわからなかったけれど、1年~数年前あげた近況報告内容から結婚して子供がいることが分かったり、どこで勤めているかが分かったり、すごい量の啓発じみた投稿を続けている人がいたりと、多種多様にしていることが分かった。

SNS上で見ると、どの人もそれぞれに充実して幸せそうな様子が感じられた。

みんな元気にしているんだなあ、なんだか懐かしいなあ、とか、あまりに順調そうな様子を見てちょっと劣等感が兆したりとか、よくある種類の感傷に耽っていた。

ひとしきり浸った後で、でも、じゃあ俺はどうなんだろう?と自分を振り返ってみた時、ひどく空っぽで何もないように思えて、なんだかむなしい気持ちが湧いてきた。

ひどく陳腐に聞こえてしまうけれど、ストレートに表現すると、まさに「自分はなんの為に生きているんだろう」といった気持ちだった。

とはいってもやはり、女の人にはちやほやされたいし、お金を稼いでぱっと見ではわからないけれどさりげなくオシャレで良い物を着飾ったりしたいし、美味しいものをたくさん食べたいし、綺麗な奥さんと元気な子供を見守っていたいし、といったようなわかりやすい欲はある。

むしろそれがすべてみたいなところはある。

なりたい自分に近づこうと努力し、どうしても自分には手に入らないものを他人が息をするように手にしているのを目にして、どうしようもない劣等感を感じたりすることだってある。

でも、このまま「普通」にそういう事を目指して、手に入るものは手に入れ、手に入らないものはあきらめ、取捨選択して行ったところで、そこから何になるんだろうと考えてしまう自分も確かに存在する。

そんな自分が22歳ごろからどんどん自分の中で存在感を増していき、今では目に見えて他人に対する興味が失せてきている。

その証拠に、Facebook上に見える他人の楽しそうな人生の事をうらやむ気持ちが、昔よりも明らかに小さくなっていた。

昔から負けず嫌いで劣等感には敏感な性格をしていたはずのに、これはいったいどうしたことだろうか。

年齢を重ねるにつれ次第にありのままの自分を受け入れ落ち着いてきたからのか(ありのままの自分ってそもそも何なんだ)、他人は他人、自分は自分というような分別がつくようになってきたからなのかは、よくわからない。

現状で不満な事はまあ(特に仕事面で)いろいろあるけれど、でも、たまの休みにこうして自室でゆっくり出来ていたり、気ままにどこかへ出かけたり、定期的に昔の友人とお酒を飲んだりする生活にある程度満足しており、比較的落ち着いてしまっている感がある。

今感じている不満な事だって基本的には自分の至らなさが起因している事ばかりで、もっと精進していかなきゃいけないなあとか、そんな程度の事を考えるくらいになっている。

わざわざ自分が、こういった環境を思いっきり変えてやる!といったようなアクティブな思考にはとてもじゃないけれど至りそうもない。

そんな状態でこのまま30歳、40歳と年を重ねていって、退屈しやしないだろうか?

ただでさえ今でもなんだか退屈な気がしているのに、このままずっとこうなのだろうか?

むしろこれからどんどん老いていき、体力も勢いもなくなっていくはずであるから、いまよりもよっぽど退屈になってしまうのではないだろうか?

今でさえ普段の何気ない生活の中、歯を磨いていたり、朝ごはんをつくっていたり、服を買い物していたり、何気ない一つ一つの行動をしている際にふと、そんなことをが頭をよぎり、目の前にあるものが急に色あせて感じ、なにもかもが空しくなったりといったことが、ここ数年かなりの頻度でやってくるのに?

そうだとすると、空しい気持ちとの付き合いはこれから先死ぬまで続くのかもしれない。

 

いろんなことがうまくいったりいかなかったりして、その度に一喜一憂してつかの間の満足感を得られていったとしても、それはただ一時的に気を紛らわせているだけで、ふと我に返った時にはきっとそういったすべてが空しくなるような瞬間というのはいつでもそこに在り、これから先もずっとずっとついてくる、そんな気がしてならない。

どれだけその瞬間楽しめていたとしても、ふと気を抜いた瞬間、そういう落とし穴のような気分になり得ると思うと、どれだけ努力して楽しく幸せな時間を獲得したところで、本質的には今のこのどうしようもなく空しい気分になっている自分と何も変わりはしないんだな、という風に考えてしまう。

こういう気持ちは、自覚しているかどうかはさておき、誰しもが持っているものだという確信がなぜかある。

だから、どんなに楽しそうで幸せに過ごしている他人を見たところで、あるいはこの世の全てを呪っていてもおかしくないような状況に立たされている他人を見たところで、本質的にはみんな同じなんだろうなあと感じる。

みんな自分の中に潜んでいるそういう退屈とか、空しさみたいなものをなるべく見て見ぬふりする為に必死で日々の生活を充実させようとしたりしているんだろうなあと考えると、言葉は悪いけれどなんだか全部下らないなあとすら思えてくる。

そうやって誤魔化し誤魔化し生きていくよりも、この自分の中に巣食っているどうしようもない空しさとどうやって向き合って生きてくかの方が重要なんじゃないかな、というふうにも考えてみる。

「死」との向き合い方と同じように、この空しさもまた向き合っていくべき事であると思う。

世の人々は「死」には鈍感で、自分からはあまり縁のないものだと考えているけれど、極端な話人はいつでもどこでも死に得るのが事実であり、「死」はいつでも身近な存在であるはずだ。

人々はなるべく自分を「死」から遠い存在であるとしたいが為に、「死」に蓋をして、なるべく自分の目に入らないようにしている。それも無自覚に。

「死」と「空しさ」、扱いとしてはとても似ているものなのかもしれない。

 

ぐるぐる考えてみたところで答えが出る問題にも思えない。

それに、いくら下らない事だとは思っても、人生楽しいに越したことは無いと思うので、日々の生活をなんとか充実できるように努力することは健全なのだろう。

普段漠然と考えている事を思いつくがままに書き下すことが出来て、疲れた半面すっきりできたので、ひとまずここで終わりとする。